ある道具を保管していた段ボール、丈夫で四角くて保存には申し分なかったのだけど、「段ボール、虫の住処になるのでは……」とハッとして、急遽処分することにした。まあまあ大きかったので、切って小さくした。丈夫な段ボールではさみがなかなか通らず、指が痛かった。7割方切り終えたところで指の皮がむけたので、そこまでにして、あとは回収日を待つのみとなった。
そこで片付けモチベーションが高まって「次は本でも片付けるか……」と思ったところで気づいてしまった。つぶした段ボール、古本の買い取りをお願いするときに使えたんじゃないかって。丈夫だったしうってつけだったんじゃないかって。
気づいたところでもうつぶしてしまったのでしかたがないんだけど、近年めずらしく、後悔の傷がいつまでもふさがらなくて、ここ数日、1日に何度も思い出してしまう。
このリカバーのために通販で買い物して段ボールを入手しようかな(しないけど)と考えるぐらいにはぐるぐるしてしまっている。
この後悔がどこからきてるのかなあと考えてるんだけど、
・「本を片付けたい」という課題を解決する手段になり得たのに気づけなかったこと
・「つぶす」と「気づく」の時間差がほとんどなかったので惜しい気持ちが強いこと
辺りだろうか。
テトリスでジャストな棒がきたんだけど、落とすところを1列間違えちゃったみたいな、そういう悔しさなのかな。
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自民党がふりまくひどいニュースや、日本「国民」がふりまく差別・排外言動の数々に接し、世の中の連休の終わりを実感した日だった。
Twitterでたまたま連休中に開催されたあるイベントの写真を見かけたが、屋内で席はみちみちだし、参加者のざっくり6割7割はマスクなしだった。「記念写真撮影時だけ外してます」ではなく、ステージにくぎづけの人がマスクしていない光景だった。もうこんなにマスクを外しているのか……。
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中日のケーキの件は、球団選手、球団広報、球団の親会社であるマスメディア、人権を解さない日本「国民」……そろいもそろって最悪だった。自分が亡命せねばならない状況になることなど、想像しなくてすむひとたちの特権性。
しんどいのは、Twitterに空虚な言い訳が並べ立てられていることで、それは言い訳にも何にもなってなくて、ただ文字を並べているだけ。文章として成立しているかどうかもあやしい。
それでも、人権を尊重しなければならないことから逃げるために、ひとの人権を侵害する行為を反省しなくてすむ状態に身を起き続けるために、ひとをコンテンツ扱いして楽しむ自分をキープするために、自分や自分の「推し」を正当化するための文字を並べ続ける。それで正当化が成立し、自分らは生活に困ることも新型コロナウイルスに感染することも難民になることも亡命者になることもないと思っていられるだろう特権性。こうした存在は、自民党がつくってきた構造の被害者である一面もあるだろう。でもそれがすべてじゃないし、それで何をも免責されるわけじゃない。
この群れを目の前にして、うなだれてしまう。
折しも昨日、ある画材メーカーの公式アカウントが首相(に関する報道)を非難する内容と思しきツイートを誤って投稿するという出来事があった。
その後すぐに謝罪のツイートがなされたものの、「首相」に対する「非難」というそのスタンスに対して批判的なツイートが圧倒的に多くて(と私は受け取った)、げんなりした。
念のため補記しておくと、あの誤ツイートの文言や、その後の謝罪のツイートにひっかかる内容があったので、それ自体が非難を受けることは想定し得る。でも多くの批判の標的は「そこ」じゃなかった。
あの人らも、自分らが絵を楽しむことができなくなる可能性があるなどと微塵も思わずに生きていられる人が大半なのだろうか。「政治」から距離を置いて死ぬまで生きていけると思っていられる人が大半なのだろうか。そう思うと、ちょっともうやってられなかった。
自民党のどんちゃん騒ぎツイートに「地震直後なのに」という苦言を寄せた人に対し、民主党を引き合いに出して「政府が何もしないほうがかえって物事がスムーズに進む」と言ってのけるような、もう手の付けようのないツイートも診てしまって、もう本当に、地面にめり込みたい気持ちになる。