スターチャンネルEXの期間が切れる前にもう1回見ておきたかった『新しき世界』を見た。終盤は2回見た。以下、忘れないうちに感想の断片をメモ(ストーリーに関する言及があります)。
この映画がここまで響かせる要素のひとつは、カン課長にも葛藤があるとこだと思う。組織の一員である自分と、人としての自分の葛藤。シヌの最後の言葉を尊重する感情は生きている。感情が生きているからこそ、警察を辞めようとする。カン課長も当然、組織という大きい歯車のための歯車にすぎないのだ。
その組織の中で(葛藤があるとはいえ)ああいう仕事を続けるためには、自らの倫理観をそれなりに壊し、神経を麻痺させてきた部分があるだろう。最初はその自覚があるかもしれない。組織のために、自戒を免れ得ている自分は「本当の自分」ではないのだと、自分はいつでも「本当の自分」に戻れるのだと、思っていたかもしれない。いや、最後までそうだったかもしれない。警察を辞めて、自分の人生を、本当の自分を取り戻そうと思っていたのかもしれない。
だとして、でも、ひとはそんなに器用なものだろうか。ひとの人生を奪う強権をふるう自分は本当に「別の自分」なのか。重力から解放されれば即切り離し可能になるロケットの一部分みたいなものなのだろうか。終盤、ジャソンをこの仕事に引き込む場面の描写を見て、そんなようなことを漠然と考えた。
あの場面を見ると、課長は最初からジャソンを「道具」として見ていたことがわかる(それがチョン・チョンとの対比になっている)。ここまで徹底的に、ジャソンの人生を奪うほどに使い倒す気だったかどうかはわからないけど。あの葛藤も、計画的にか意図的にか何度も「話が違う」状況を繰り返すことになり、その末に積もり積もってきたものなのではあるのだろうけど。
カン課長の最後は、「あるひとの人生をぶっ壊したひとの帰結」としてはザ・因果応報であったと思う。でも、生きて葛藤を引きずり続けるべきだったのではないかとも思うところもある。
そしてジャソン。ジャソンは、あの時点でカン課長に見つかってしまったことが不幸の始まりではないか。組織人としてNOという選択肢はなかっただろう。ヘビににらまれたカエルだ。
ではジャソンは、カン課長に見つからなかったら幸せに暮らせたのだろうか。「ヒョン」とも妻ともおそらく出会うことはなかった人生は幸せだったのか。
妻への気持ちはよくわからない。描写が少ないので、察するのが難しい。妻の背後を何も知らずにパートナーとして尊重しているのか、それともすべてを知っていて受け入れているのか。
『名もなき野良犬の輪舞』は、「出会ってしまったふたり」であり「出会うべきふたり」のストーリーだと私には映った。ヒョンスの今後はバラ色とはほど遠いけど、それでも出会うべくして出会ったふたりだったと思った。出会わなかったらある種の空洞を抱えていたふたり。ジェホにとっては言うまでもない。
翻って、ジャソンにとってヒョンは、というと、普通の警察官としてヒョンに出会うことなく過ごす人生も「あり」だったのではないかと思った。「ある」べきものが「ない」ことに気づかなくても生きていけたんじゃないかと思った。
だとしても(そうでないとしても)、出会って、ともに関係を積み上げ育ててきたふたりはもうそれだけで十分に尊い、特別な、それでいて普通の、人間と人間の間柄だった。ヒョンといるときだけジャソンは表情がやわらぐし、ヒョンはジャソンの表情を見ることができる。
しかしヒョンは、もしあのように襲われず元気でいたら、ジェソンを許していたのだろうか。最後までジェソンの表情に気づき、最後の最後まで舎弟を慮っていられただろうか。たとえ大切な相手であっても。いや、特別な相手だからこそ。8年の積み重ねがあるからこそ。その重荷から解放されたヒョンは、『名もなき野良犬の輪舞』のジェホと重なる。しんどいのは、生き残ってしまったヒョンスでありジェソンだ。苦しい生を背負ってしまったひとだ。
最後、「映画見に行くぞ〜」というヒョンをくしゃくしゃの笑顔で追うジェソン、そこにかぶさるテーマ曲が、会長席で孤独な背中を見せるジェソンのこれからをまた思い出させて、ぐわ〜〜〜〜〜〜〜〜ってなった。