猫が無事、推定誕生日を迎えることができたので、赤ちゃん時代を育ててくださった方に報告するつもりでSNSに投稿した。
去年はどういう投稿をしたか振り返ってみると、投稿がなかった。そういえば去年は、投稿どうしようかな……と思考停止している間に年末になっていたのだった。
一昨年はというと、投稿していた。ある時点から、猫の1年は人間の4年に相当するようになるが、それでいうと猫時計で8年前の投稿だ。猫の様子も私の感じ方も、今とはやっぱり違う。時は流れている。
もうひとつ違うことに気がついた。私の昔の投稿には、今より格段に(←主観で)「いいね」が多かった。
しばらく投稿してなかったから、フォローしてくださる方も減っただろう。SNSのアルゴリズムがTLに流す出現数も少ないのだろうとも想像できる。もともとキャッチーな投稿が多かったわけでもない。それでも最近は、何を投稿しても反応があまりない。
でも私の投稿をよく見てくださる方、以前にメッセージなどを介したことがあって「私」を認識してくださる方は、ちゃんと反応を返してくださる。それを目にするとき、これがSNSだよな、人のつながりの可視化というのはそういうことだよなと自覚する。
人とのつながりを山にたとえたとき、真ん中の山の部分と、広がるすそ野の部分があって、私に見えなくなった「いいね」は後者のものなのだと思う。そしてその存在を、私自身がふだんは気にしていない。けど、ふとしたときに不安に陥るきっかけになることがある。
私は透明人間なんじゃないかって。まわりの人に「いいね」をつけて終わる人生なんじゃないかって。
小学生の頃、クラスの子の誕生日会に呼んでもらえるかどうかを気にしていた感覚に近い。
リアルの生活では一人であることにさびしさを感じることはほぼない(いつでも一人暮らしに戻りたい)けど、人間関係に対する希求は捨てきれていないとわかる。
人間関係について、ちょっと前から薄々気になっていることがある。あるクライアントからの連絡が途絶えている。
案件がないということは考えがたい。外注費用を捻出できなくなった(元請けに請求できなくなったから下請けに出せなくなった)可能性はあるが、そんなに急に状況が変わるというのも違和感がある。
最後の連絡の少し前から、メールの口調が硬いものになっていた。ある案件のお支払い予定について私が質問した、そのあとからだった。
たまたまか? たまたまにしては条件が重なりすぎている。たまたまだと思いたいのだ。事務的な確認を婉曲に行った(つもりの)、あの質問で取引関係が失われたとは思いたくないのだ。
この感じはあれだ、昔むかし、あの人にメールを送ったあと返信が来なかったときのやつに似ている。急に冷たくなったとき、自分のメールや言動に原因を求めて掘って掘って掘り下げてしまうあの感じ。
なんで仕事でこの感じを味わわなければならんのだ。
こんなひとつひとつがいちいち気になってぐさぐさと刺さっているのは、弱っているからだ。
弱っている理由は、金がないからだ。
ここ数か月の一連の案件が終わりかけていて、次の予定は白紙。あのクライアントもあの取引先からも連絡がない。インボイス制度も中止になる将来が見えない(反対し続けるけど)。銀行口座の数字もどんどん減っていく。そして爺は勝手な言い分で家に入れる金を減らそうとする。最後のがとどめ。朝、この一報が携帯に入って、それから終日腹が立ってしかたがなかった。
でも今回の一件で、爺を放逐する選択肢を手にすることの心理的葛藤、良心の呵責が少し減った。
親の終末か自分の人生か、言い換えれば自分の良心か自由か、どちらかを選ばなければならなくなったとき、後者を選ぶ予行練習ができた気がする。
それを「よかった」としていいのかといわれれば多少の躊躇はあるが、体験としては大きいものになった。
他方、依然としてつかめないのは、これからどうやって生きていくかだ。
どうやって生計を立てていくか。
【追記】
あまりにいじましかったので、一部上書きした。
履歴を残さない上書き修正は文書一般として適切ではない方法だけど、そういう日もあった日記ということで。