そういう人たち

ここのところ、Twitterは揺れている。
買収に伴って大きな変化が起きており、その周辺でさまざまな憶測が飛び交っているからだ。

その変化の一つに、タイムラインの表示アルゴリズムの変更がある、とささやかれている。
実際に表示アルゴリズムが変わったのかどうか、私は確かめていないし、私のタイムライン上ではそれほど大きな変化があるようには見えない。
ただ、目の前のタイムラインにそういう変化が起こったととらえている人が相当数いることはわかった。

その中に、「(アルゴリズムの変更で)政治系ツイートや変なハッシュタグが流れてこないようになってよかったですイーロンマスク今のとこ万歳」(意訳)というツイートがあった。
そのツイートをした人は、ある分野で著書を出している人だった。私はその本にいい印象をもっていた。それだけにがっくりきた。

……というようなツイートをしたら、千単位のリアクションがあった。
そうして、私の「周辺」を越えてどこか遠くに届いたのだろう。しょうもないクソリプがつくようになった。

クソリプも、文意が明確であるとか議論が成立しそうな余地を確認できる場合は返信しようと考えることもある。
でもその反対であればリプライは難しい。今回はほぼ後者だった。対話の成立する余地も対話を試みる意義も、微塵も見出せなかった。

今、この社会には、この期に及んでも腐りきった政権与党に票を投じる人がいる。あるいは投票に行かない人がいる。権力に阿り弱い物を冷笑することをよしとする人がいる。声を上げることがよくないことだと思っている人がいる。
「そういう人たち」(雑なくくりだけどひとまず勘弁)が相当数いるらしい。

私は「そういう人たち」がどうなろうと知ったことではない。
ただ、「そういう人たち」が多数決で勝つような社会で、「そういう人たち」が積極的にないしは消極的に望むような未来にひきずられるのが本当に嫌だ。
自分と猫とチョカの命と生活と人権を守りたい。端的に言えばそれだけが望み。

そのために、「そういう人たち」をどうにか減らさなければいけないということはわかっているので、気にかけている。気にかけているが、私が「そういう人たち」に影響力をもてる気もしないし、私個人かどうかにかかわらず「そういう人たち」に働き掛けられるすべがあるようにも思えない。じゃあどうすればいいのか。毎日、そういう振り子の中で生きている気がする。

今回の私のツイートは、「そういう人たち」に届いたのだろう。
その結果はといえば、ただただ断絶を痛感するだけだった。しんどい。

  ■ ■ ■

みたいなことを、相変わらず毎日考えて生きている。
最後の日記からもう3カ月近く経ってしまった。
1日の最後に日記を書くのは無理(続かない)ということはもうよーーくわかったので、別の時間帯に書くことにしようと思っている。

日記を書いてない自分と向き合うのがつらくて逃げてたところももちろんあった。
逃げるくらいだから、書くことが好きじゃないんじゃないかと思うところもある。
ただ、Twitterも先行きどうなるかわからず、自分の足元も覚束ないような毎日で、自分の内なる対話をやっぱりそれでも残しておきたいという考えも消えなかった。
このまま「日記を書けなかった自分」に敗北したくもないし。

あと、チョカとの時間もやっぱり、遅蒔きながら記録しておきたい。
もう薄れてしまった記憶も多々あるけれども、今からでもつかまえられるものだけでもつかまえてとっておきたい。
チョカというのは韓国語で甥・姪を意味するそうだ。
小さい子を女性名詞で呼ぶということに対する抵抗が日増しに大きくなってきたので、日記のなかではチョカと記すことにする。

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