釜の蓋

いつもの土曜は「チョカと過ごす日」だけど、この日は所用により来訪なし、久しぶりにフリーの土曜日となった。人出が多いだろう土曜日に出かけるのは避けたいので、家で仕事をすることにした。

この土日は近所でお祭りがあり、外から神輿を担ぐ声や山車の音が聞こえてきた。人間にとっては(新型コロナウイルスが存在する今、人が密集する状態を手放しで称賛することはできないが)季節の出来事で済むが、猫にとっては数日前の雷雨に続きよくない刺激になってしまう音だ。案の定、猫はこわがってある種の興奮状態になり、家の中をぐるぐる大移動していた。

こういうときは、廊下に出るドアの開閉(からの脱走)を狙われたり、冷蔵庫の上に上がったりしかねない。そこで私は、気をつけてと伝えるためにを母に情報共有をした。すると母は、神輿を見たかったらしく「お神輿来てたの? もう少し早く言ってくれればよかったのに」と残念がった。

あんなにとんとことんとこ音が鳴っていたのに、あなたの耳にそれが聞こえなかったのは、私が費用を負担して買った補聴器を自ら放棄したからではないのか。祭りのことは知っていたのだから、見たかったなら「音がしたら教えてほしい」と自分で言っておけばよかったじゃないか。なんで私が「教えなかった私が悪い」みたいな気持ちを背負わされなければならんのだ。ふざけるな。そんな罪悪勘、しんでも背負ってなるものか。

母はおそらく、そこまで深く考えることなくあの一言を発しただろう。その一言に私がここまで激昂する理由、ここまで積み重ねてきた背景事情はいろいろあるが、一番大きいのはやはり、希望しない同居を余儀なくされているストレスを我慢している状態にある。親の貧困のために選んでしまった同居、私の人生最大の誤り。

自分で家族にすることを望んだ猫ですら、感情をかき乱され腹が立つことは多々ある。でも私の唯一の、私が望み私が責任をもつべき唯一の家族だから、それは解消すべく努力できる。でも、望んで空間を共有しているわけではない人間には、私の感情を1ミリでもかき乱されたくないし、合意形成を図る努力も惜しい。私の自由を侵害し搾取することを許せない。

そういう思いが一瞬にしてぶわーーーーっとあふれてきた。昨日のおいしかったドーナツの余韻はたちどころに吹っ飛んだ。
そこからは怒涛の恨み辛みタイム、からの、自分がいかに他者を拒絶し他者から拒絶されたかを思い起こす自省タイム。久しぶりに苦しい気持ちによる涙が出た。でもこの空間では泣けない。泣くのはものすごく体力を使うからできれば避けたいけど、それでも泣けばある程度すっきりするところもあったはずだ。でも泣けない。あ〜あ〜〜〜〜ひとり暮らしだったら大声で泣けたのによ〜〜〜〜〜。私に一人暮らしの時間を、自由を返せ。

こういうことがあると、私がまあまあ限界の状態と隣り合わせの生活をしているのだなと、自分のストレスに気づく。母も父の、家父長制の被害者だから、一応最後まで面倒を見る覚悟は最悪なくもない、母だけは。最悪な。その細い細い思いが、自分を支えている。けど、いうてもつらさを麻痺させているだけなんだよな、この生活……。

少し前に、Mastodonに「国にしっかりした高齢者福祉を求めること」と「自分自身が身内の老後の面倒を見ることに感じるつらさ」との板挟み、それらは矛盾するのではないかというような思いについて投稿されている方がいらした。
うかつに口をはさむことが憚られ、リプライも何もしなかったけど、私も同じようなことをよく考えるよ、と伝えたくなった。

その方の逡巡、迷い、決断はその方のものであり、私の逡巡、迷い、決断は私のものだ。そして私の決断、今のところの一応の結論は「それとこれとはまったく別の問題だ」。「一応」というのは、結論に達してはいても、「そうはいっても……」と思考が再びめぐり、ゆれることはままあるからだ。

私が親の老後を背負う義務を課される謂れは微塵もないぞ、私の人生は親の人生をしまうためにあるのではないぞ、本来親自身がなすべきだったことも、国の役目も、私に負わせるんじゃねえ、と思っている。今は仕方なく同じ空間を共有しているけど、未来永劫この環境を保障するつもりもない。

とはいえ、「さ、じゃ、明日出てってね」と言うパワーはなかなかわくものではない。その罪悪勘と、日々苦しむことの積み重ねと、どちらが大きいのだろうということもよく考える。答えは出ない。40年以上親が望む長女をやってきて、その規範を内面化しまくってしまって、近年ようやくこのおかしさに気づいたばかりなのだ。おかしいことであっても、自分の中に根付いてしまったものから外れる行為に思えてしまうことをするのは簡単なことじゃない。

そういうことを思うと、つくづく、本当につくづく、あのときうかつに同居を選ぶべきではなかった。あの決断を、私はたぶんしぬまで後悔すると思う。

あのときひとりだけ、その決断を心配してくださった方がいた。たまたま何かのいきがかりで相談することになったファイナンシャルプランナーの方。家賃の話から同居の話になったのだった。踏み込みすぎてはいけない、でもデメリットは伝えておきたい、という気持ちのある、外部の第三者にでき得る配慮を施したアドバイスだったと思う。今振り返れば、あの方の言っていたことが大正解だった。

◆◆◆

これが昼間の出来事で、テンションはどん底だったけど、この内容をMastodonに投稿してまあまあ元気が出てきた。
私はSNSの投稿の大半をパソコンでする。その投稿もパソコンで打鍵した。自分が脳内で出力する言葉をそのままキーボードで打鍵する、この動作をすると頭がすっきりし、エンジンがかかることが多い。単純に手を動かすことでスイッチが切り替わるのかも。我ながら単純だけど、気が紛れた。

ということで、午後は仕事に戻った。事実確認中心の校正。モニターの小さい文字をガン見するために腰を曲げてしまうので、事実確認の多い案件にかかると腰が痛くなることが多い。今回もやっちまった。やっぱり、モニターにアームをつけて、近距離で字を読めるようにしたい。

その後も何度か神輿や山車の音が聞こえることがあり、そのたびに母には伝えた。何回かは私も一緒に表に出た。そういえば、チョカ一家がこのお祭りに来るようなことを言っていた。今回の祭りは誘われなかった。チョカ親かチョカの友達と一緒だからかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

そのことについては心の底からまったく気にしていなかった。けど、そうして神輿の列を眺めぼーっとしているときなどにそのことをふと思い出し、そこから記憶の蓋が開き、小学生や中学生時代、友達の誕生会や近所の盆踊りに誘われなかったときの気分を思い出して感情がゆれたのがちょっとつらかった。昔から私はそうだったじゃんか。心底ひとりになりたい。

◆◆◆

Twitterの青い鳥のぬいぐるみをつくったという方の投稿をMastodonで見かけて、私もぬいぐるみをつくりたくなった。
ちょうど昨日、出先で、バッグに小さいぬいぐるみをつけている方がいて、なんかいいな、私もしてみたいなと思ったのだった。
ぬいぐるみの服をつくりたい欲求も高まってきているので、それを加味しつつ、持ち歩けるぬいぐるみをつくりたい。

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