何者にもなれなかった話

Mastodonで、ある方が投稿していた「何者にもなれなかった話」を読んで、もうなんか叫びたくなるような共感がわいた。過ごしてきた経緯は違うけど、その末にたどりついた現地点で考えることに勝手に近しいものを感じて、ものすごくぐっときた。その勢いで、私も自分の話を投稿した。それをここにも残しておくことにする。


私には「あのとき結婚しておけばよかったのかな」と思う瞬間がある。

あのときしてたら楽になる面はあったと思う(特に経済面)。
でもしてたらたぶん、自分のどこかがしんでたと思う。あのときすでに、相当自分を麻痺させて過ごしていたから。

今は、しなくてよかったんだろうと思ってる。そう思うようにしてる面ももちろんある。

でも今でも、その相手のことを夢に見ることがある。たいてい人生がうまくいってないとき。「後悔」という文言にはしてないけど、それと同じことが自分の皮1枚下では起こっているのだろうと思う。
ただそれは結婚や恋愛によるパートナーシップが欲しいゆえの後悔ではなく、あったかもしれない別の人生へのないものねだりとして。

私も後悔ばっかりが思い浮かぶ人生だけど、今、ひとりで生きてることにはすごく満足してる。

友達は欲しかったなあと思う。友達というか、人間関係。それをつくれなかったことは後悔が大きいし、機会があれば今でも望む。
でも恋愛でつながるパートナーシップはもういい。

単身で老後に向かっていく身として、恋愛以外でつながる何らかのコミュニティにはすごく関心がある。
でも基本的には、このままひとりで生きてひとりで死にたい。

そんなような物思いがあったもので、****さん(注:元の投稿をされた方)の投稿の最後にあった〈後悔ばかりの人生だけど仕方ないから「ひとりで生きさせろ」って言うことに決めた。/ひとりとして、社会の中にいて、繋がること。〉はうんうんうんうんとぶんぶんうなずきながら読んだ。

あともうひとつ思ったのは、「次にZINEをつくるときはタイトルを考えよう」ということだった。

私がZINEをつくろうと思った根底には、🔼の「ひとりで生きてひとりで死にたい」というのがあるんだけど、それと「猫の鼻息」の見え方が結びつかない気がして。

「猫の鼻息」は私にとっては得がたい幸せの象徴というか、99%つらい生のなかに1%細い細い幸せの時間がある、大量のつらさとの裏表にある記憶みたいなもので、自分の意識としてはそんなに乖離してるものじゃないけど、文字面からはそれはたぶん伝わらない。

日記はいいとしても、今回のインボイス制度みたいな話とは違和感あるな……というのはちょっと気にはなってたんだ。
まあいろいろやってみよ


このブログも「猫の鼻息」で、私はこの冠をとても気に入っている。母が飼っていた猫の晩年、腕枕したときに手に受けた細い細い鼻息を今でも思い出す。
ただ、ZINEを出すにあたり、私はタイトルづけや表紙の装丁にももう少しリソースを割いたほうがいいんじゃないかなと思ったのだ。ぼちぼちやってみよ

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