マイクラ、マルモイ

ここのところコロはいつも、うちで過ごす大半の時間をマイクラに費やしている。そして今回、家に帰ってからもネットを介して私と一緒にマイクラしたいと言い出した。前に私がそういうこともできるという話をちょっとしたのを覚えていたのか、YouTubeか何かで情報を得たのか。最近、クリエイティブモードからサバイバルモードに変更して、楽しさが格段に違うのを2人とも実感していた。コロもそれで「もっとマイクラしたい」と思うに至ったのかもしれない。

コロの家のマイクラは、Microsoftアカウントをつくっていない状態でプレイしていた。そこで新たにアカウントをつくってログインし、私のアカウントとつながれば一緒にゲームできるはずで、それ自体は問題ない。しかし、すでにマイクラをしていた端末で新たにアカウントをつくり紐付けると、それまでにプレイしていた世界のデータが消えてしまうのではないか……というのが私の一番の懸念だった。検索してもよくわからず、自分で試してみることに。試行の結果、データが消えるということはないようだった。その結果を踏まえて再度検索すると、データはローカルに保存される(ので、あとからアカウントをつくってもデータは消えないし、それ以降のデータもネットには保存されない)ということのようだった。なおこれは統合版(タブレットで操作)の話。

ということでもろもろ設定し、無事に「お互いの家で一緒にマイクラ」に成功。当たり前だけど楽しい。楽しすぎて危険だ……と思いながら、「今日は土曜日だし、コロのためだから」と言い訳して楽しんだ。

夜はウォッチパーティーで『マルモイ ことばあつめ』を見た。
とてもおもしろいしすごいしいい作品だけど、それだけに、日本が韓国を植民地支配していた時代の日本の悪行が伝わってきて、眉間にしわがよってしまう。久しぶりに見たけど、ウォチパでひととわいわい言いながら見るという視聴スタイルでよかったと思う。

以下、感想のメモ(ストーリーの言及があります) ↓↓↓

葉っぱが生い茂っており、その上に雨の雫がのっている。

・久しぶりに見たらユ・ヘジンの力にただただ圧倒されたのだけど、カメオ出演というのか、場面場面で出る俳優さんも豪華というか、見たことのある方が多かった(と、今回気づいた)。
一番びっくりしたのは「親父さん」のキム・ホンパで、「あれこのひとどこかd……えーあの悪役の??」と驚いた。俳優さんすごい。

・こないだ、『ボストン1947』の日本向け予告映像(日本向けの日本語ナレーションの映像)を見ていて、日本の存在をまたえらく消し去っているなあ……これ私見ていいのだろうか(見るけど)……と思っていたのだけど、『マルモイ』も、これが日本で公開されたことをどう受け止めればいいのか考えてしまう。

・“親日派”になる道を選んだ代表の父が「植民地支配されて30年だぞ、ここからひっくり返せるわけないだろ」みたいなことを言っていたけど、30年の支配、重い。
2024年の現在からすれば、それはあと数年で終わるとわかっているわけだけど、当時のひとはそんなことわかりようがないし、日本が負けていなかったらずっと続いてしまっていたかもしれない。しかも、韓国はここからまた朝鮮戦争や軍事政権がくるという……日本の罪は重い。戦争自体あってはならなかったし、あらゆる加害も行われてはならなかったけど、1945年に負けて日本がそれまでの歩みを止めることができたことを、せめて「よかった」と思うしかないのだ。

・と同時に、次に日本が戦争の当事者になるとしたら、今度は「負けてその歩みを止める」という“ひとまず”の終止符すら打てないかもしれないなというようなことを考えたりもした。

・日本のフィクション作品では、戦争のさなかを子どもとして生きているひとが「愛国者」を演じているような描写がはさまれることがある。例えば、『カーネーション』の優子が、「お国のために生きる少女」をやるみたいな。
ああいうのは、まわりの大人が望んでいる「理想の子ども像」を演じなければと思う子どもほど、熱心にやったのではないかと思わせる。年齢にかかわらず「理想」を求める圧力も当然あったわけだし。ただ、そうして演じているうちに心に侵食してしまったとしてもおかしくないだろうし、日本で生まれ育ち日本の国籍をもつ者としてそういう言動をとることは少なくとも「不自然」ではない。

他方、『マルモイ』のドクジンをはじめとする朝鮮の子どもたちは、学校で皇民化教育を受けており、身の安全を守るために従順であろうとはするけれども、心の底まで「愛国者」になることはないんじゃないか、と想像する(会長の父とて、心の底まで「愛国者」であるかといえば、そうではないだろう)。ドクジンが父に活動をやめてくれというのも、妹に日本語を使えというのも、「愛国者」であるからではなくこわいから、自分や妹の安全を守りたいからで。

でも、もしあのまま日本の占領が続いていてドクジンが大きくなって、賢いがために一定の役職を得るようなことがあったとしたら、「身の処し方としての『愛国者』しぐさ」がいつか心身に侵食してしまうこともあったのかな。それこそ会長の父のように。

ドクジンが、学校で日本人の大人に言われているであろう「バカ野郎」を妹に使っているのもつらい。無意識のすりこみかもしれないし、「こうやって日本人に脅されるのだぞ」と伝えるために意識して使っていたのかもしれない。どっちにしてもつらい。

とかいろいろ考えて、私はドクジンにいつも感情移入してしまう。単純に、あの1943年から妹を守ってきた苦労を考えるだけでもつらいし。
ユ・へジン演じるキム・パンスの愛嬌には作中の人物だけでなく見ているこちらも好ましく思うし、それあってこそのこの映画だけど、ドクジンは父の分まで深刻に悩むパートを背負わされているようにも見えて。

・ラストシーンで出てくるスンヒが、小さい頃と同じくほがらかで暗さを感じさせないのがいい。パンスの明るさをしのばせるし、ドクジンがんばったねと思わせるし……。

・この作品は、現代の日本の学校で全員見てほしいし、地上派のゴールデンタイムに何回でも放送すべきだと思う。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です