「仕事の予定を考えると出かけるならこの日だな」のタイミングだったので、武井武雄展を見に行くことにした。Google Mapで検索し、どのルートで行くか検討する。何を比較検討するのかといえば、徒歩の距離の短さと、虫遭遇リスクの高さだ。この時期に日傘を持って歩く第一の目的は日よけのためだが、私にとっては同じくらいの重みで虫よけのためのお守りでもある。徒歩の距離が一番短くて済むルートは狭い道を進むようだった。狭い道はセミ爆弾を避けられない危険がある。悩みに悩んで、けっこう歩くが道が広そうなルートで行くことにした。
最寄りのバス停から徒歩15分。半分ぐらいはゆるゆるとした登り坂だったが、後半はスキー場の上級コースかというぐらい角度のある坂だった。登りきれず途中で休憩し、ようやく登りきってまた休憩。坂の上はザ・山の手という風情で、映画『パラサイト』のパク家、あるいはドラマ『アンナ』のマレがある世界はこんな感じだろうかと考えた。
肝心の武井武雄展はというとよかった。よかったのだけど、どうにもひっかかるものを感じてしかたがなかった。
私は、本という媒体のよさを、原則として否定しない。けれど、本という存在、特に紙の本が高尚なもの、価値の高いものとしてもてはやされる風潮にはひく気持ちが強い。
市川沙央さんは「読書文化のマチズモ」という言葉で、日本における読書バリアフリーの遅れを指摘し、読書から排除される存在を示した。加えて現代の日本では、賃金が上がらず暮らしが豊かにならない日本では、経済的な理由で読書にたどりつけないひとが少なからずいる。本を買うお金がない。読む時間がない。本を買っても置いておくスペースがない。その根本原因が政治にあるのは言うまでもないのに、報道は、「政治」を嫌うひとは、そこから目をそらしたまま「文化を守りたい」と言う。
そんな状況でも文フリやZINEイベントは盛況で、書店のイベントは行列ができる。そうしてSNSに投稿される「何冊も買っちゃいました」の写真。他方で、「今日もお客さんはほとんど来ませんでした」という本屋さんのツイートもよく見るようになった。そういう状況で、「紙の本、やっぱりいいですよね!」といわれたら、私はすんなりと「はい」とはいえない。自分も紙の本を買っているし、紙でZINEも出しているし、ひとのZINEもめちゃ読みたいけど、それでも、常にどこかひっかかっている。「紙の本、いいですよね。でもね」と、必ず注釈をつけたくなる。
武井武雄氏は、「本の芸術家」と銘打たれているとおり、「真に芸術的な本の創造」を目指して追究する。展示の順路はまさにその氏の追究の軌跡を示している。順路を進むごとに高まっていく芸術性。「本」として求められていた武井氏の本が、「宝石」として求められていくようになっていくのがよくわかった。絵を描いて版画刷って印刷にこだわって、そうして「芸術作品」を生み出す氏のすごさにも感服した。
でも、「本」は「宝石」化するにつれて希少化し、その価値を認める会員の手にのみ渡るようになる。〈製作実費のみで頒布され〉たそうだが、こだわってつくった実費だけでも相応の額であっただろう。会員になるハードル、金銭的負担のハードル、その紙の本を読むハードル……。そのハードルが当時の価値でどのぐらいのものであったのかわからないが、そういう様子が現代の本に関する読書文化のマチズモや、財布を気にせず本を買える特権性、そこにある格差に重なって見えて、後半に進めば進むほどひっかかってしまった。そういう話、受け取る側のコンディションの話。
平日の昼間にこの展示を見ているあのひとやあのひとは、やっぱりそういう特権性を有するひとなのだろうか。それとも私のように、なけなしの時間とお金を使って見に来ているのだろうか。
夜は、西森路代さんと河昇彬さんの「韓国ノワールが教えてくれたこと 『韓国ノワール その激情と成熟』刊行記念」イベントをオンライン配信で視聴。ツイートしたら読んでもらえてうれしかった。おもしろかったけど、1時間半はやっぱりあっという間だ。約1000円という価格設定は手が届きやすくありがたいが、もっと聞きたいという気持ちになる。アーカイブで見返して咀嚼しよう(アーカイブ期間が長いのもありがたい)。