結局、「人」がすることなので

以前に猫の保護活動を手伝っていたとき、私の目から見て「こうしたらいいのでは」と思うところがいろいろあって、その都度提案したり、許可を得て自分でやったりした。
作業的なところを変えることは合意形成も比較的容易だし、任せてもらえればこちらで対応できることも多い。それが猫の保護活動の充実につながれば、私としても望外の喜びだと思っていた。

他方、活動の根本的なところや金銭が絡むところでは、変えることの合意形成は難しいことが少なくなかった。
たとえば企業における仕事であれば、目的があり評価基準があり、ロジックというある種の共通言語で議論することができる余地が多かった(完全に可能だとは言わない)。

しかし、動物の保護活動は、かたちとしては団体であっても主宰者個人の営みである部分がとても大きく、合理やロジックというものでは割り切れない部分が大きいように思う。
長いこと保護活動に従事してきた方ほど、ご自身の中に確固たる方向性があって、それを他人が変えるのは(たとえわずかでも)容易ではない。
あるいは、議論して改善を見出すこと自体には同意を得られても、議論したり検討したりする時間をもつことが難しい。保護活動に心血をそそいでいる方ほど余力がないものだから。

以上は、あくまで私がこれまでに接触・経験した範囲での印象・体感。サンプルごく少数の話。これをもって「保護活動は……」と論じたいわけではもちろんない。
これを書いたのは、私がこうした経験のなかでもどかしさを感じることが多々あった、という話をしたいからだ。

こうした活動の手伝いをしていたとき、私はあくまで手伝いであって、主宰者の考えを尊重すべきだと思っていた。だから一定以上は踏み込まなかった。踏み込めなかった。
それはしかたのないことだ。「私」の活動ではないので。
でも、私としてもそれなりに熱意をもち、リソースを注いでいた。だから、なかなか変わらない部分にもどかしさを感じることは当然あった。
そして、そのもどかしさを完全に解消するには、自分が意思決定権者となる活動主体となる必要があるんだと、そのときは結論を出した。
私ではなく、人と粘り強くつきあい交渉できる人だったら、手伝いの立場でも、メンバーの一人という立場でも、もっとうまくできただろうと思う。できるのだろうと思う。でも私には、それはできなかった。

 * * *

今、ある有志の集まりが行っているある活動をちょっと手伝っている。コアメンバーではなく、あくまで作業の手伝いだ。だから一定以上は踏み込まない。

でも関わっていれば、「こうしたらいいのでは」と思う部分が浮かぶ。その活動の成否は私の将来にも大きく関わることでもあるので、手伝いとはいえ完全に自分事としてやっている。こっちもそれなりに必死だ。
だから一応、でしゃばりすぎない程度に提案することもある。でもあまり反応がよくない。

ぽっと出の手伝いなのに、ということなのかもしれない。
「そんなこと既出だよ(わかってるけどリソース足りないんだよ)」なのかもしれない。
「そんなことして何の意味があるの?」なのかもしれない。
「新しいことまで手が回らない」なのかもしれない。

そういうことも考慮して、現実的に可能な範囲の内容を、言うだけにならないような仕方で提案しているつもりなのだけど、あまり反応が返ってこない。提案の是非以前に、打っても響いている気がしない。打ったボールがそのままどこかに消えていくような感覚。

そういう感覚を味わったときに、じゃあ私には何ができるのかなと思う。
たとえば、猫の幸せに貢献したいと思ったとき、社会をいいほうに変えたいと思ったとき、政治を変えたいと思ったとき、インボイス制度をぶっ潰したいと思ったとき、私一人で何ができるのだろうかと思う。

先の参院選では、文字で人の行動を促し、声で連帯を示してくれる存在にネット越しで出会い、とても励まされたという経験があった。その人たちが人を動かすところを目の当たりにして、私も背中を押してもらった。
そういうことが、自分にはできるのだろうか、できないんじゃないかと思う。できないとしたら、じゃあこれからどうやって生きていけばいいのだろうと思う。

何者かになりたいとかそういうことじゃない。
大きいものに踏まれ続ける社会で、じっと踏まれ続けているのは無理なので一人なら一人なりに何かしたいのだけど、自分がじたばたしても何にもならない、露ほどの役にも立たないと自覚しながらじたばたし続けるのは無理があるなと思ったという、そういうこと。

今日も今日とて、そんなことを考える一日だった。
仕事は15分の7まで進んだ。明日一日で残りの8を片付ける目標。

(追記)
「私が言ったこと全然響かねえなあ……」と思ったあと、別の人が似たような提案をして採用されることも(本活動に限らず)ままある。
本件に限らず、私の提案の仕方や内容が悪い可能性は大前提としていやというほど想定しているので、「私の提案、絶対いいのに」という意味での感慨ではない、ということは(自分の日記だけど)申し添えておきたい。
そこまで自己評価高くねえわ。そこまで自己評価高かったらそこまで苦しんでないし。

で、そういうとき、「ああやっぱ私いなくても社会は動いていくんですね、よかったですわ、サラサラサラ……(砂となって消える音)」という感じになるんだった私というやつは、ということを今まさに味わったので追記しとく。

(追記2)
このもどかしさに感じるしんどさには、いくつかの要素がある。
そのうちの一つに、自分の声が届かない孤独、自分という人間がほかの人間に影響し得ない孤独、ほかの人との連帯をうまく実現できない孤独、というような「孤独」に関するものがあるなと、今回書いてみて気づいた。

1人で生活すること(今の家の中には親がいるけどそれはまったく別の問題なので)に対する孤独感は克服したし、むしろ1人になりたいけど、この種の孤独は存在の否定にもつながって、それとは別のつらさがある。
社会がここまでクソじゃなかったら、死ぬまで健やかに暮らせると思える社会だったら、それでもなんとかやっていけただろうなとは思うが。
これはまた改めて見つめ直そう……。

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