『マスクガール』の感想

仕事もなく、出かけるでもなく、何もできずうだうだしていた。

夕飯を食べながら見る動画に『マスクガール』を選んだら、おもしろくて最後まで見続けてしまった。以下、感想の断片をメモ(ストーリーに関する言及があります)。

葉っぱが生い茂っており、その上に雨の雫がのっている。

『マスクガール』というタイトルとあのメインビジュアルで、ああいうストーリーになるとは思ってもみなかった。スターとしての成功を描くのかな、身近で見てくれている“青い鳥”への気づきを描くのかな、殺人者の逃亡を描くのかな……といった想像は全部外れた。途中からは先を考えないで画面を追うことに集中した。

圧巻はなんといってもヨム・ヘラン。『ザ・グローリー』も私はヨム・ヘランにぐいぐいひっぱられて全話をかけぬけるように見たのだった。『ザ・グローリー』では応援せずにはいられない弱い存在を演じたけれど、今作では執念を具現化したような存在を見せてくれた。しかし、序盤のあの電話の主がヨム・ヘランだとはまさか思わないじゃんね……。

ここ数カ月、女性(表象)の登場人物が多い、女性(表象)の物語をよく見ている気がする。『クイーンメーカー』『ザ・グローリー』『マスクガール』『アンナ』……。韓国ドラマに多いのは偶然ではないのだろう。うれしいことだな。

そういえば『マスクガール』は、どこか『アンナ』を思わせるところがあったな。年の出方だけでなく、雰囲気的にも。あと、中盤の物語で犬が出てきて、途中で蹴られる描写がある(実際の撮影では当然蹴られていない)、最後無事でよかった。動物が出てくる物語って、ストーリーとは全然別に「動物大丈夫なんだよね? ね???」となって落ち着かない。

そして今作は、親子の物語でもある。モミの母は言動ではモミのあり方を否定したけど、内面の愛情まで否定したわけではなかった(のだろうと解釈した。孫をあのように思っていたのであれば)。他方、オナムの母(ヨム・ヘラン)は言動としてはオナムを溺愛したけど、あるべき姿を子供に押しつけたという意味ではモミの母と同じだ。その内面は愛情だったのか。ままならない人生を取り戻したいという執着ではなかったか。モミもオナムも、母という存在から自身を否定されたという意味では同じだ。

ミモにとって(実は)2人の祖母である、モミの母とオナムの母。モミの母には存在を否定されたのはミモも同じ。オナムの母は(祖母であるとは知らず)存在を受け入れられた、と思ったが、実はそれは自分を害するための策略だった。つまりやっぱりミモも、保護者的存在からは受け入れられず育つことになってしまった。それは、モミとオナムの子である以上、必然といえるものだったのかもしれないけど、子供というひとりの存在にとってはそんなこと知ったことではなく、ただただかわいそうだった。

だから、最後にモミの母とのわだかまりが氷解してよかった。それでもモミの母には死んでほしくなかった。生きて、氷をかかえて生きてきた2人の「娘」の時間を償ってほしかった(そしてその財力で、ミモを育ててほしかった)(財力は遺産というかたちで残ったのかもしれないけど)。

ミモとイェチュンは出会えてよかったなあ……。噓はミモを傷つけたけど、結果として、イェチュンの家族があたたかいものであってよかった。モミとチュネも生きて、ミモとイェチュンのように生きられたらよかったのになあ……。

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