忘れる、思い出す

この写真、我ながらものすごく気に入っていて、毎日眺めてしまう。

蒼い海

単純に色がきれいだな、波紋が涼しげだな、というだけでなく、撮影時の高揚感がこの写真には写っているように自分には見えるのだ。これは初めての体験だ。
(客観もくそもなく、思ったことをそのまま書いている)

ずっと観たかった展示を目的に、横須賀美術館に行った。
行きは観音崎京急ホテルの前でバスを降りて、帰りは観音崎からバスに乗る。
この写真は、その美術館からバス停に向かう5分程度の道のりで撮ったものだ。

晴れた日の横須賀美術館から見渡せる風景は本当にきれいで、おまけに今はあじさいも盛りを迎えている。
久しぶりに海を眺めてこよう。
今ちょうどあじさい作品の試作中であじさい観察に関心があるので、あじさいを眺めてこよう。

もはや何が不要で何が不急なのか、私にはわからない。
とはいえ、自衛のため人のため、長居は無用。景色を眺めるのもあくまで散歩程度、
そう思っていたので、カメラは持たずに出かけた。

しかし、海の日差しはまあ心地よく、風景の撮影はまあ楽しく、iPhoneのシャッターを一旦押しはじめるや、もう指が止まらなかった。
ああいうところに行ったら自分がああなるということを想定できないほど、「ああカメラ〜〜〜〜」と思うに決まっていることを事前に想像できないほど、私は外で楽しむ感覚をもう忘れてしまっていたのだった。

人は慣れる生きもの、忘れる生きものという。
ほぼ家にこもりきりである日常に、ふだんはまったく不満はない。でもそれは、こういう楽しみに鈍感になっていただけなのだとわかる。
鈍感。いろんなことに鈍感になってるよ、もう。それは家の中にこもっていても自覚はしている。それでいいとももはや思っている。
でもこういう楽しい瞬間を味わえる自分もまだいるのだなとも思う。
そのことを特段うれしいと感じているわけではない。
ただ、自分の中にある戸棚が空っぽだと思っていたら中に人がいたというような、そういう気分。

人生であと何度、こういう瞬間があるかわからない。たくさんあったらいいなとも思わない。
でもまた、この海には行きたいと思うし、死ぬまでにもう一度はダイビングもできたらいいなと思う。

  ◆ ◆ ◆

相変わらず毎日怒ってばっかりだけど、最近は怒り疲れがこうじてTwitterを見るのがつらくなってきた。
仕事や外出でTwitterをみる暇がない日は、精神の安定を感じる。
だからといって目を背け続けて、ほかの方の怒りにただ乗りしっぱなしになるのはだめだし、バランスのとり方が難しい。

先月末だったか、緊急事態宣言の延長が決定したという例のグダグダを見せつけられたとき、あるジャーナリストの方が「もうやってらんねえわ」みたいなツイートをしていた。
宣言が出ようが出まいが、自分と人の命を守るために外出などはできる限り避けざるを得ない。その気持ちを人質にして、補償もなく自粛を強制するばかりの政府のやり方に、瞬間「もう自粛なんぞくそくらえ」と思う感情はよくわかると思った。

それから少し経って、そのツイートを見たらしい他国在住のジャーナリストが「ジャーナリストともあろうものが自粛の社会的意義も理解しないとは」というような内容のツイートをしたのが目に入った。
140文字の断片と断片のよくある衝突だけど、私は猛烈に腹が立ち、他人ながらレスポンスをしてしまった。社会的意義を十分理解して実行していてもなお、感情があふれる瞬間がある、それだけひどい状況なのだと。返信はなかった。

あれ以来、外出などの控えるということについて、感情を処理するのが少し難しくなった。
いわゆる自粛は継続しているし、必要があれば出かけるし、外から帰ってきたら風呂か全身拭くし、買い物のレジに何人もで並ぶ輩には眉をひそめるし、自粛の強制に対して補償がないのは間違っていると思うし、そういうもろもろは変わらないけど、ただなんというか、感情面でちょっと穴があいた部分がある。

  ◆ ◆ ◆

観音崎から乗る帰りのバスは、約20分に1本。
横須賀美術館から観音崎のバス停に向かって歩きながら、次のバスの時間を頭に留めながら、海の写真を撮っていた。
まだ少し時間があって、砂浜で貝を拾った。もうちょっと。

と、ある地点で変なにおいがすることに気付いた。
それまで意識は海やら地面に向かっていたけれど、そこで視線を上げる。
バーベキューのなんだかよくわからないにおい。あちこちでテント、人、バーベキュー、バイク。
マスクしている人、していない人。飲み食いしている人。

ああ、やべえところに入り込んでしまったと思った。
海外ドラマで「あのブロックから先は治安のよくないところだから」と説明されるような地域に意図せず入ってしまった人の気持ちは、こういうものなのだろうか。
本当に肝が冷えた。
今この状況で、ああいうところに出かけて飲食する人が実在するという事実、屋外だからとマスクなしで過ごす人がいる事実に、ぞっとしたのだった。
誰にも目を合わせないようにして、呼吸も最低限にバス停へ向かった。

といっても、自分とあの人たちとの差があるかどうかすらもわからない。
感情にあいた穴からあの人たちを覗くと、わかりはしないけど、想像はできるように思う。いうても、ノーマスク運動などとはわけが違うのだから。
私が定期的に行く本屋のある商業地域だって、人はわんさかいるではないか。
なんであの海であんなにぞっとしたのか、ちょっとわからない。けど、ちょっと忘れがたい。
帰宅後は当然、紙以外は全部洗うか拭くかした。それもいつもと同じ。

青空にトビ

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