“友達”への手紙

私にとって、かつてあのラジオ番組は“友達”のように近しい、自分の人生を支えてくれた存在だった。その“友達”に対する違和感がどんどん大きくなって、私は離れた。その“友達”が、その違和感の延長線上にまんまいて、さらに今そんなことに……という気持ちになる出来事があった。

この日の相談コーナーを聞いて私が思ったのは、以前の彼女なら、今回の相談を細かく因数分解して、このパーツはどういう対処が考えられる、このパーツにはこういうことが考えられるよって、そういう視点のもちかたを示してくれたのではないかということだ。
それは一リスナーである私の想像に過ぎないけれど、そういう視点のもちかたをできる彼女が私は好きだったし、尊敬もしていた。
その視点のもちかたと、解釈のバリエーションと、アップデートされた価値観と、かける言葉のチョイスこそが、彼女のラジオパーソナリティとしての大きな魅力であり、それが現代を生きてラジオを聞く多様な人々の「相談」にフィットした、と解釈している。

それが少しずつ(特にある種のテーマにおいては)、視点がやわらかくなくなり、視界の広さが感じられなくなり、相談の背景に対する想像力の欠如を感じるようになってきた。端的に言って、「自分が相談してこんなふうにぶったぎられたらかなわんな」と思うことが増えていった。私も、相談コーナーに何度相談しようと思ったか。でも、彼女のロジカルな回答から逆算して「これはどういう方向の回答を求める相談なんだ?」「答えのない相談になってないか?」などと考えてしまい、結局一度も送ることはなかった。

そしてこの日の相談コーナーは、相談内容の分析が一面的で断定的で雑だと感じた。
番組のなかでは省略した部分(リスナーが聞けない部分)に、もしかしたらそう断じられる根拠があったのかもしれない。けど聞いた範囲では「いやいや、ほかにも考え得るでしょ」と単純に思った。
例えば「ビジネスパーソンは忙しく、あなたにハラスメントしようとしてするようなヒマな人はそういない」というような発言もあったけれど、しょうもない理由でハラスメントをするヒマなやつはいくらでもいる。

全編を通じて、相談者氏の“気の持ちよう”というのが前提になっていた回答だった。本当にそうかどうか、ラジオにのった内容だけでは断定できない。「断定できない」のだ。相談者氏がそう受け取るだけの理由があって、それを相談の筆にのせきれなかったのかもしれない。直接対面で話を聞いたとしても、言うのも聞くのも難しいテーマだろう。そういう前提は、彼女にはあっただろうか。

あの相談コーナーが、「細木某やマツコ某にぶった切ってほしい」人が訪れるものならば、2回の半笑いも、「なんでここに送ってきちゃったかな」という言葉も、応対内容も、違和感はない。
でもあなたの相談コーナーの魅力はそこではなかったはずだ。あの細やかだった視点はどこへいった? これは過度な期待か? 虚像をおしつけてるか?

彼女は(私の観測範囲で)何度か、相談コーナーで寄り添いを求められることに対するしんどさ、多くの人が聞くラジオで相談に対応するしんどさを口にしている。
私は、彼女に寄り添ってほしいと言っているのではない。クレバーな論理的な、それでいてあたたかみも捨ててない、そういう応対がなくなってしまったことを嘆いている。

相談者氏がどう受け止めたかはわからない。たとえ対面なりTwitterなりで話を聞けたとしても、それが本当の気持ちかどうかはわからない。でも私だったら、相談を読んでいるそばから半笑い、読み終わって半笑い、そして「なんでここに」、をのせて流れる音の波から、深刻なダメージを受けたはずだ。あの相談者氏は私だったかもしれないのだ。もし私が相談を送っていたら。

変わらない人はいない、という意味でいえば彼女は変わっただろう。そして私も変わった。彼女が感じること、話すことも変わったかもしれないし、同じ声を聞いているはずのこちらの受け取り側のセンサーも以前とは違っている。その自覚はある。それでも残念。本当に。残念。

その後のツイートもひどかった。ハッシュタグをつけて書き込むリスナーの多くは、「相談に対する回答はともかく、“さらしあげ”ともいえるツイートをしたことこそ肯定しがたい」という反応だった。私は相談の応対も十分ひどかったと感じた。その怒りと悲しみが強かった。

でも、あとから思い返してみると、あのツイートもやはりひどかった。番組の非公式ハッシュタグに寄せられたあるネガティブなツイートに、引用リツイートでの応酬。
彼女のファンであろう何万というフォロワーに、番組を聞きながらタグをつけてツイートしているリスナーに、百数十字にのせて流してしまうものの意味、その強度に、否応なく自覚的であらねばならないポジションに、彼女はすでにいるのに。

「『ない』状態からがんばったら、今度は成功者としてあげつらわれる」というようなツイートがあったけど、「成功者」として扱われている自覚があるなら、その力の強さと使い方には自覚的になるしかない。「ジェーン・スー」という仕事は、そういうものであったのではなかろうか。その姿勢こそが、それを実践できる価値観と理性こそが、「ジェーン・スー」というキャラクターの魅力であったのではなかったか。

当然、人間としての弱さの露出を否定するものではない。特に彼女は、パーソナルな部分とその名称で背負った部分の境目は融合していて、切り分けるのは難しいだろうし、切り分けたらもう「ジェーン・スー」たり得ないだろう。それでいえば、その名称を背負ったアカウントで弱さが表面化することも、それはあるだろうと思う。でも、それをリスナーにぶつけるようなまねをする理由にはしてはいけない。
度を超す誹謗中傷や危険を感じる攻撃などもすべて受け入れろ(受け流せ)といっているのでは毛頭ない。その境目の判定は難しいこともあるが、今回は決してそうではなかった。あのリスナーの方が、彼女にあのような言葉でさらされるいわれはなかった。

私はあのツイートを見て、「さらされたあの人も、私だったかもしれないな」と思った。かつて毎日番組を聞いて、いいと思ったこともそうでないこともタグをつけて書いていた。それをずっと続けていたら、いつかこうしてさらされて、彼女のフォロワーにいいようにサンドバッグにされていたかもしれないのか、と思った。
そう感じたのは、私だけではないだろうと想像する。というのは「ほかにもいるもんね」と言いたいのではない。あの一連のツイートが与えた衝撃がそれだけ大きかったと言いたいのだ。

ほかの方書いてらしたけど、いつものラジオを聞きながらハッシュタグつけてツイートするというのは、なじみの店に顔なじみがなんとなく集ってるようなよさがある(番組の性質にもよるけれど)。私もそれはとても好きだった。この番組についても、かつてはそうだった。そういう人たちの気持ちにも、少なからず冷や水をぶっかけただろう。

私はすでに、別のタイミングでこの冷や水をかぶったことがあった。
彼女のPodcast番組で、「(タグをつけてネガティブなツイートをする人は)攻撃するために聞きに来てる」というような発言をしていたときがあった。あれを聞いたときはたいそうショックだった。“友達”のように大事にしていたラジオだったから、「ちょっと待ってよ」と思うことも書いていたのに。タグをつけてネガティブなことを書いたら、パーソナリティに否定されるのか。

攻撃するために聞いている人ももしかしたらいるのかもしれない。それに、彼女がどのようなツイートを指してそう話していたのかも具体的にはわからない。1対多で受けることのつらさもあるだろう。でもいっしょくたにしないでくれよと思った。彼女は線を引いて、私はその線の中に入れなかった、と感じる出来事だった。
あまりに腹が立ちかなしくなったので、自分の感情を書き留めようと、該当箇所の発言を書き起こししてしばらくテキストファイルにとっておいた。でも、いつかのタイミングで消したような気もする。もう思い出したくなかったから。でもTwitterか日記のどっかに書いたような気もする。

彼女にとってあのPodcastは、そういう部分も言える場所なのだろうと理解しているつもりだし、彼女がそう言いたくなる気持ちをもつことは当然否定しない。私があの線の中にいられなかったのはかなしかったけど、彼女がそれを言う場としてあのPodcastを選んだのも「あり」だとは思った。でも、この日の相談コーナーで言った「なんでここに送ってきちゃったかな」は「なし」だ。あのツイートも。

「で?」? だからどうだということはない。私は引き続き彼女の番組は聞かないし、Podcastもまた足が遠のくだろう。Twitterはブロックした。でも、これまでのようにこれからも聞く人もいるだろうし、むしろ私もそうなれたらよかった。でも、あの相談コーナーで傷つく人が増えないように、相談する人と相談される人の間にミスマッチが起こらないように、とは願っている。そうならないなら、そんな相談コーナーは店じまいするか新装開店したほうがいい。

——Twitterに書き連ねたものをまとめなおした。一連のツイートは衝動というか(まあだいたいのツイートはそんなもんだ)、涙みたいなものだったと思う。私の感情をビンに詰めて海に流したようなものか。そのボトルメールが海の藻屑となってもかまわないけれど、誰かに届くことを想像するのも悪くない。

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