「かさぶたを剥いてはいけない」という掟を、生まれて四十数年経った今でも守ることができない。
かさぶたの端っこの、乾ききってない部分から出た血を拭いていると、「私なにができるようになったのだろうね」とうつむきそうになる。
私の夢に定期的に登場する人物がいる。
かつて一緒に住んだ人。
朝起きて、ふっと浮かぶ夢の記憶の中にあの人の顔があると、自分の手からこぼれたものに目を落としてがっくりしてしまう。
あの人とずっと一緒にいることができていたら、幸福や安寧を今より得ていたかもしれない。その「かもしれない人生」を思ってしまうから。
でも、その人生を選んでいたら、代わりにものすごく空虚なものを一生おなかに抱えて生きていたかもしれない。
だからだめになったのだから。
どちらが正解だったのかは今もわからない。
あの人が夢に登場するのは、「いまここ」に至った自分の選択を後悔しそうな、不安な状態になっているからだ、というのはだいたいわかっている。
自分のないものねだりの象徴を、夢の中であの人に背負わせてしまっているのは心苦しい。もう登場しなくなるように、自分の選択をちゃんと飲み込んで生きたい。
そのためには、死ぬまでの間の糊口の凌ぎ方をつくらねばならん。
あの人にかけられた言葉で今も定期的に思い出すのが、「年をとったら絵を描く時間もとれるようになるだろう。でもその頃には感性が衰えてしまうかも?」というようなもの(定期的に思い出すわりには、正確な言葉を忘れていることに気付いた)。
当時はポジティブな文脈でかけてくれた言葉だったけど、その中の「年をとったら感性が衰えてしまう」という部分が楔みたいに刺さったままずっと抜けずにいる。
そうして、近年自分の手や目や感じ方の錆び付きを自覚するたびに「私の感性はもう死んだのでは。私はもうだめなのでは」と考えるようになってしまった。
そんなたいそうな感性があったわけではないのだけど、そういう問題ではないので。
この、自分がかけた呪いを破るには、書くことか描くことで満足するしかないというのが、今のところの答え。
で、今の私は描くことをどうにかしたいと思っている。
すごい絵じゃなくてもいいんだけど、「自分の絵好きだな」と思える絵を描けるようになりたい。
やっぱ習うところ探すか。
私が勝手に呪いにしてしまったけど、あの楔みたいな言葉が、ゾンビみたいな今の私の背筋をどうにか支えている部分もある。それは間違いなくある。
以上、
「新しい仕事の軸をつくりたい」
「絵をうまく描けるようになりたい(自分比で)」
が目下の悩み、という日記。
何度となく挫折している「1日1絵」を、今度こそはどうにか続けたい。
「あのときから続けていたらもう……」という後悔をせずに過ごしたいので。