ねこよ

〈上〉

先日、猫の腎臓病の治療研究に関する大学チームの報道があった。その報道を受け、大学には数千万円の寄付が集まっているという。研究がうまく進み、猫が腎臓病を克服できるようになったら本当に喜ばしいと思う。その治療における飼い主の負担を軽くできるならばなおのことだ。

他方、猫が病気を克服して長寿命化すれば、飼い主である人間はそれだけ長く、猫の生涯に責任をもつことになる。近年の猫全体の平均寿命はおよそ16歳で、猫を飼うなら20年飼えるかどうかを見越して決心する必要がある。

そして先の報道によれば、その研究で腎臓病を克服できれば、猫の寿命は最大30歳まで延びる可能性があるそうだ。そうなれば、猫を迎え入れようとする人間は「この猫のこれからの30年、責任をもって一緒に生きることができるか」を考える必要が生じることになる。

 ―もともとAIMが機能していないネコに、きちんと機能するAIMを若い時期から投与すれば、腎臓病にはならず、長生きできるわけですね。

 獣医師さんによると、ネコの平均寿命の2倍、最長で30歳くらいまで生きるようになるということです。それに何よりも、腎臓病で長く苦しむことがなくなります。

「ネコの宿命」腎臓病の治療法を開発 寿命が2倍、最長30年にも 東大大学院・宮崎徹教授インタビュー(時事通信) 2021年07月11日08時00分

時事通信(https://www.jiji.com/jc/article?k=2021070800906&g=soc)

30年、猫と一緒に住める家屋を確保できるか?
30年、猫と一緒に住める家族構成であり続けることができるか?
30年、猫の医療費を必要なときに必要なだけきちんと支払えるか?

そんなこと、正直誰にも保証はできないだろう。
それでも、そういう覚悟をしなければ猫は飼えない。命とはそういうものだから。

広い家に住める国だったら。
「猫飼育可」の家を探すことが難しくない国だったら。
人権を大事にする働き方が尊重されている国だったら。
老後を安心して穏やかに過ごせる国だったら。
話はまだ違うだろう。けれど少なくとも今の日本においては、猫との30年の暮らしを許さない外部要因が多すぎる。人間の意志と行動ではねのけることができる要因ももちろんある。でも、自分だけではままならない要因もある。

だからといって「だから適当でいいんですよ。先のことはわからないのだから」とは当然ならない。そういう不確定要素も見越したうえで、30年の責任を負う覚悟をし、最後の最後まで実際に力を尽くすことは、猫の命を背負う以上当然の責務だから。それでも、30年となるとその重さは変わりはする。責任を全うするつもりだからこそ。

それともう一つ、難病の克服にはおそらく安くない治療費がかかる。猫の生涯に存在する選択肢の多くは、人間が決断しなければならない。その決断が、しかも大きな決断が増えるだろう。

長らく治癒困難な病とされてきたFIP(猫伝染性腹膜炎)は数年前に新薬が登場し、その恩恵を受ける猫が増えてきた。しかし、日本では未承認であるその薬を使って治療するには、100万円を超える費用がかかる。

私はこのFIPで1匹の猫を亡くした。生後3カ月だった。当時はまだ、その新薬の恩恵は私のもとには届いておらず、医療費の岐路に立つことすらかなわなかった。

それから数年経った今も、その病は相変わらず憎らしく難病であり続けるけれど、その薬を使用することは可能になった。その分、人間にとっては希望も悩みも増えているだろうと拝察する。SNSで、ブログで、クラウドファンディングサイトで、その一片を目にすることは少なくない。

私は、もし今、すぐそこに寝ている猫がそうなってしまったらどうしようとよく考える。答えは出ない。猫のちょっとした不調を前に、猫のストレスをおしても病院に連れていくべきか否かですら悩むのだ。正解はないのだ。医療も日々進歩する。医師によってスタンスも異なる。そんな重い決断を軽々にできるわけがない。

選択肢が増えれば決断の悩みも増える。それは悩ましいことだ。でも、選択肢がなければそもそも決断すらできない。選択肢があるというのはともかくすばらしいことだ。この2つは両立する。

猫にしろ人間にしろ、医療が進歩して選択肢が増えるのはすばらしいことだ。ひとりで生きることができず、自身の不調を訴えることもできない猫については特にそうだ。猫が健康で元気で「幸せな長生き」を実現できるようになる未来を、私は望む。他方で、その未来が実現したときに起こり得る課題を、私は心配する。

〈中〉

そういう心境で、ある方のツイートを目にした。猫を飼っている方で、その猫が私の猫と似ていることからTwitter上でたまに会話を交わすようになった方だ。ここ数カ月は、私が猫用アカウントをあまり使っておらずごぶさたしていたが、最近はその猫が推定の誕生日を迎えたということで、お祝いのツイートをしたばかりだった。

このツイートの一部に、私はとてもショックを受けた。それについてリプライで伝えるべきか、DMでそっと送ろうか、黙ってフォローを外すべきか、とさんざん迷った末に、私はその方に伝えるのをやめた。

伝えるべきだと考えた理由は、私にとってその方は「せっかくご縁のあった方」であり、黙っていなくなるのは不誠実だと思ったから。伝えるのをやめた理由は、先方にとっては私など大した存在ではなく、私が何を申したところで単なるクソリプと処理されてしまう気がしたから。

人間関係のある人間どうしの間で、「あなたのその発言に私は傷ついた」という話をするのは有意義であると私は思う。「その部分に断絶を感じたので、私は離れます」と伝えることも。そしてそこから始まる対話が双方に働きかける。その働きかけこそが、人間関係のいいところ、おもしろいところではないだろうか。もはや人間関係から長らく離れている私が言ったところで説得力がないが。

だけど、そこまでの人間関係でなければ、私の感情を伝えたところで「それあなたのお気持ちですよね」で終わってしまうだろう。事実、内容は私の感想だ。先方にとって価値のない感想を断絶の挨拶だととらえられてしまえば、対話は発生しない。

今回のケースがどちらに該当するのか。人間関係から長らく離れている私に、その辺りの機微を判断するのはもう難しい。自分がそれほど求められているという自認もまったくない。だからやめた。

冷静になってみれば、内容は完全に私の気持ち以外の何ものでもない。私以外の誰にも必要とされるものではなく、むしろ不要なものだろう。でも私には必要なもの、というかもう生まれてしまったものだ。だからひとまずここに記す。自分が感じたことをちゃんと認めてやりたい。

自分の気持ちを日記サイトに書くことについては、ここまでの前置きは必要ないだろう。でも、この一連の内容を論考に仕立てることができたら、その方に届けるに足る、世に提起する価値も生まれるかもしれない。長い長い前置き〈上〉は、そういうことを少し意識して、下書きのつもりで書いた。そう仕上げるかどうかは別として、数字や事実関係はちゃんと整理しておきたいなとも思った。でも今はその前に、書ききってしまいたい。

〈下〉

以降に、その方に宛てて書きたかった内容を記す。その方のツイートが文脈の前提となるため引用するが、その方を特定されるのも、私にその方を攻撃する意図があると誤解されるのも、いずれも私の本意ではない。そのため、出典表記はせず、文章以外の部分は見えないように加工した画像の形式で最低限の引用をする。著作権等権利侵害の意図はないことも加え、あらかじめ述べておく。

先生のツイートを拝見しました。私はこの一連のツイートを拝読して、先生は「(当該研究が奏効しても)いきなり世界中の猫の寿命が延びるわけじゃない」、さらにいえば猫を飼う家庭の多くがその未来に到達できるようになるとしてもそれは「遠い遠い未来」とお考えで、だから、猫の長寿命化に伴う飼い主の「大変」さを現段階で懸念することについては、現段階で表明することについては、ネガティブなスタンスである、とおっしゃっているように受け取りました。

先生の散見された「『飼い主は大変だ』と言っている方」にどのようなツイートがどこまで含まれているのか、私にはわかりません。その「大変だ」ツイート群がある程度の数があるとして、そこにはさまざまなグラデーションがあることと思います。その前提で、私はそのグラデーションの端っこにいる一人かもしれないなと思います。ささやかながら縁あった者として、その位置から見えるものをお伝えできればと思う次第です。

私は、猫の医療が進歩して猫の選択肢が増えるのはすばらしいことだと思います。猫は自身の不調を訴えることも叶わず、人間は猫を病院に連れていくかどうかすら日々手探りです。医療の選択肢が増え、医療の技術が進歩し、多くの猫が「元気で幸せな長生き」を実現できるような未来が来ることを、私は望んでいます。

他方で、その未来が実現したときには、猫の「元気で幸せな長生き」を支えるために解決すべき課題も生じることと思います。私はその課題についても懸念をしています。人間がその課題に直面するのは相当先のことだとしても、です。先のことならばこそ、今から準備しておけば、よりよい未来に近づくのではないかとも考えます。この懸念は、先の「未来を望むこと」と両立するものと考えます。

「猫が20年生きようが30年生きようが、その猫の生涯を責任もって共にするのが人間の責務である」
「病気が克服されて長生きするかどうかにかかわらず、人間の責任の重さは同じである」
というお考えが、先生にはおありかと拝察します。それだけ猫を大切に思っているお姿と存じます。

しかしながら、現在の日本で猫の飼育に関して発生しているさまざまな問題を目にするとき、猫の長寿命化を幸せなものにするためには、人間が立ち向かい解決すべき課題があるというのは、事実であると考えます。これは私なぞがお話をしても説得力がないでしょうけれど、猫の保護活動に従事していらっしゃる方のご苦労、保護者の方々が猫の幸せを追究されるお姿の一端に触れると特に、私はその懸念が不必要なものとは決して思えないのです。

「そんな先のことを心配しないで、まずは研究を応援して、幸せな未来を望んでいればいいのではないか」とお思いかもしれません。
しかし、猫の長生きを幸せなものにするためには、人間の努力が不可欠であると私自身は考えます。飼い主自身もですし、社会全体もです。それを「責任の重さ」と表することに、私は違和感を覚えません。

先生におかれては、こうした「責任」への言及が研究に水を差す発言とお感じになったのかもしれませんが、そうした課題を懸念し提起することは、当該研究の存在とその進歩に異議を唱えるものでは当然ありません。幸せな「遠い遠い未来」に向けて動物医療はもっともっと進歩してほしいですし、当該研究も実を結んでほしいと心から願っています。今回、研究に対する多額の寄付が寄せられたことについては、私は久しぶりに人間の希望を垣間見た思いがしました。

◆ ◆

長くなって申し訳ありません。
私が先生にお伝えしたいことはもう1点あります。

先生は、「(当該研究で治療が進むようになったとしても)お薬もフードも最初は高くなりそうだし、そこまで頑張れる飼い主のうちの猫だけが恩恵を被ることができるのでは、と考えると、猫が長生きして困る家の猫は長生きしないのでは。」と書かれました。

「猫が長生きして困る家の猫は長生きしないのでは」。
ツイートという限られた文字数で端的に説明する、という目的は叶えておられるかもしれませんが、私はこの表現に非常に落胆しました。ショックでした。

実際問題として、高額な医療費を支払うことができない飼い主は、先端医療の恩恵を受けることはできないでしょう。
だから、その恩恵を受けることができないような「大変」な飼い主は、頑張れない飼い主は、そんな未来の心配まですることないよ、と?
なぜならば、あなたが頑張れなかったために猫は寿命を延ばせず亡くなってしまうのだから、と?
こう解釈するしかない文脈だと思いました。だとすれば、これはあまりに冷酷な“断罪”の言葉であると、私には受け取れました。

猫が何十年生きても万全の態勢で猫の生涯を支えることができるご家庭は、ぜひそうなさったらよろしいと思います。そういうご家庭ばかりだったらどんなにいいかとも。
でもそうではないご家庭も、諸般の理由で先端医療の恩恵を受けることができないご家庭も、猫の幸せを支えることは可能です。
そうしたご家庭が「猫が長生きして困る家」であるとは私には到底思えませんし、そうしたご家庭の方々もまた猫の将来について思いをめぐらせることはとても有意義なことであると考えます。

先生のこのツイートは、そうした有意義な行動の価値を毀損し、“猫が長生きしても困らない家”以外の方の口を閉ざす効果を及ぼしかねないものと思います。とても残念です。

<付記>

最後のほう、ちょっと息切れしてしまった……。
でも主立ったところはだいたい書けた。
あとできれば保護活動(猫の譲渡の難しさ、保護活動と猫の医療の関わり)についてもふれたかった。

今日は思わぬところである猫の訃報にふれ、そのあとにこの方のツイートを拝見したもので、とてもつらかった。
ほかの方もツイートされていたけれど、私にもSNSで一方的にフォローして勝手に知り合いになったつもりの「猫を飼っている方&猫」がいる。
そうしたご家庭の猫が、飼い主さんも思いがけず急に亡くなってしまうというのは本当につらい。急死の報にふれ、一瞬息が止まってしまった。

ツイートに掲出された日々の写真を振り返っている自分を省みて、ツイートをスクロールするみたいに時間を巻き戻せたらどんなにいいかと、それを一番なさりたいだろう飼い主さんの気持ちを考える。
猫の医療はつまるところ飼い主(人間)の選択であり、その選択は飼い主と猫(と病院)のものであり、そのとき正解だと思ったものが正解なのだと思うしかないと、私は思っている。猫の幸せを日々追究されて、経験も豊富な方の選択であれば特にそうだ。
それでも、あったかもしれないifをずっといろいろ考えてしまうのだよね。本当につらい。

最後に、書こうとしたけど、あまりにも私情寄りになるかと思い(まあ全編私情ですけど)省いたところを書き添えて、今日は終わりにする。。

↓↓

猫におけるFIPという難病は、少なくとも日本において、先生のおっしゃる「お薬もフードも最初は高くなり」の段階にあるかと思います。
私がこの病で先の猫を亡くしたとき、私の手元にこの選択肢は届いていませんでした。しかし今の猫が万一そうなったら……新型コロナウイルスが感染拡大の一途を辿っている今は特に、私は毎日のようにこのifを考えます。

今飼っている猫も先天性の異常があり、長生きできるかどうかわかりません。
今のところは、根本治療の方法はないと言われています。でももし、この子が元気でいてくれるうちに治療法が見つかって、それが高額だったら……これも毎日考えることです。

私は裕福ではありません。独身で賃貸でフリーランスで、猫を託す子孫はありません。
それでもあらゆる可能性を考え、自分がつくり得る選択肢をすべて準備して、20年一緒に生きるつもりで、この猫を迎えました。
親が飼っていた猫は21年生きてくれました。この子も25年生きてくれたら大歓迎だと思っています。
それでも、最善の先端の医療をこの猫に用意できるのか、即断はできません。
私は「猫が長生きして困る家」にこの子を迎えてしまったのでしょうか。
「猫が長生きして困る家」なんて、あるのでしょうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です