とどめ

※冒頭1段落目に、暴力的な被害を想起させる表現があります。ご懸念のある方は飛ばしてください。





市井の人間の命など鼻にもかけない政治によって健康や財布の危機がどんどん迫ってくる日々には、「お前なんかどうでもいいんだよ」と蹴られ続けているような実感がある。おかげで、精神の安定とはほど遠い。
そこへ来て、小田急の殺傷事件があった。それがフェミサイドだとわかって、蹴りでとどめの一撃が振り下ろされた気持ちになった。
感染症、性差別、政治、社会……何重にも暴力をかいくぐらないと生きていけないのか、自分という人間は。その暴力をかいくぐる努力だけでもう生きのびられるイメージがまるでない。怒ることもできないほど沈んでしまった。

土曜日はもともと「何もしなくてもいいことを自分に許す日」にしている。
することといえばだいたい長めの昼寝か動画視聴だ。せっかくの時間なので「観たい作品リスト」の(自分にとっての)新作をと思うものの、観る作品選びで時間は過ぎ、結局いつもの「カロリー使わずに観られる作品」「満足できることがわかっている作品」になってしまうことが多い。

でも今日は満を持して『KCIA 南山の部長たち』を観た。
韓国の1979年の出来事。このあと『タクシー運転手』(1980年光州事件)があり、『1987、ある闘いの真実』(1987年民主化闘争)があったのか……。
積ん読にしてしまっている韓国の本をそろそろちゃんと読んでおきたい。

金曜日の事件に関するツイートを見て、『私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない』と『ヘイトをとめるレッスン』を読もうと思った。どちらも以前から読みたいと思っていた本。だから本屋で探していた。でももう当分本屋には行けない。買えなくなってしまう前に通販で注文しよう。

1日1絵の練習の成果か、少しずつ、絵を描くことを楽しめるようになってきた。
基礎の練習はまだまだ不十分だし、ここから「自分の絵」に進むには何かの蓄積の必要性を感じる。でも、手を動かすことを躊躇しないようになってきたのは大きな成果だ。

あけて日曜日。
横浜市長選は告示日を迎え、立憲民主党の国会議員アカウントによる某候補者推薦ツイートがちらつくようになった。
ただ、そのテンションにはばらつきがあった。本件に関する党からの指示に対する能動度合いの違い、あるいは当該選挙への関心の違いの表れを思わせた。
今回の立憲民主党による某候補者推薦の一件は、国政選挙における市民の投票行動に残念な影響を及ぼすのではないかと懸念している。が、そもそもそこまで注目されていないのが実状かもしれない。

衆議院選挙も、政権交代を果たすには自公を落とすだけではだめで、いざとなったらいつでも連立するであろう維新と国民民主の躍進も止めないといけない。でもそれは、針の穴を通すより難しいこと、一筋の光だけどあまりに細い筋であるように感じられて、正直絶望が晴れない。立憲民主は、最低でも党三役代えないと私自身が支持できないと思うに至った。自民の有志と立憲民主の有志による新党結成話とか出ないかな……などと想像する程度には現実逃避している。

そしてとうとう五輪は、少なくともオリンピックの部は、閉会式まで強行されて終わってしまった。閉会式にまで子供がかり出されたという報を見て、45万筆を超えた五輪開催反対署名が無視されたように、挙げられた声は1ミリも聞かれていないのだと思った。

期間限定で無料公開された『新型コロナ 自宅療養完全マニュアル』を読んで、やはりゴーグルは買おうと思った(出費……)。だけど東京行きは今のところ断念するつもりだ。原画展は諦めきれないが、長時間電車に乗るのがやはりどうしてもこわい。平日の下り電車ならともかく、だ。

自分が感染して自宅に放置され命を落とすところまでは受け入れられる(これは個人の死生観の問題であって、医療崩壊を招き棄民方針を出す政権を許容するものでは断じてない。断じて許さん)。でも実際はそうではない。
もしも生存して重篤な後遺症が残ってしまったら? 私には自分の仕事以外の収入はない。自分が仕事できなければ生きていけない。
自分が姪や猫に移してしまったら? 姪に何かあったら悔いきれないし償えない。最近Twitterで、猫の不整脈に関する話を見かけることが増えた気がしていることもひっかかっている。
他人への感染源になってしまうことももちろん避けたい。そういう可能性をおして電車に乗るのは、ちょっと無理だなと、今のところ思っている。

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