そこを経過した大人として

先日来の「打っても響かない」問題の根本は、人間と人間の対話という場面での響かない様子(響かせることができない自分)への落胆なのだけど、それとは別に自分の傲慢さも確実に存在している。
その比重が、日を追うごとに自分に重くのしかかってきていて、はずかしいし自分への落胆が増すしで……、まあはずかしいです。
そんな自分が何をもできるわけがないし、ほかにもやっている人は(いくらでも、ではないけど)いるので、私の出る幕ないなというテンションに移行しつつある。ただ、その自虐は逃げの口実であり、その自分に負けたら立ち上がれない気もする。

そんなことを考えながらも、何をすべきかという模索は続けているつもりなのだが、昨日は生きてたら1日が終わった。生きてくのに、体力と時間とお金、いりすぎでは??
そういう言い訳で脳が模索から逃げようとしてるだけなのかもしれないけど、この時期まかりまちがっても体調は崩せないので、体力的に無理はしてはいけない。
そういえば今週は、右足がずっと軽くつったようになっていたのも気になっていた。

よわよわの私をぶっちぎって、姪の成長は相変わらず目覚ましい。
先月辺りからレジン作品づくりに勤しむ時間が増え、そのバリエーションは毎週あふれんばかりだ。先週はTピンや9ピンを曲げてアクセサリーをつくることまでしてみせた(私はほとんど何も教えていない)。
今週は、私が海辺風の模様をつけてみせたところ、それを軽く超える海辺作品をいくつもつくっていた。子供ってなんでこんなにすごいんだろう。

でも、そんな子供も、人間関係にはもうすでに苦労している。
その渦中にいる子供に対して、すでにそこを経過した大人として、何ができるのかちゃんと真剣に考えていかないと。こういうの、どこかで勉強できないかな。

近所の子供会は、今年は縁日を開催する予定でお知らせを掲出していたが、その貼り紙の上に「中止します」の紙が重ねられていた。
子供の健康を守ることが優先されるのは当然だが、その事態を招いたのは政治の無為無策であり、大人にはそれを許してきたという責任はある。「子供がかわいそう」と思うなら、なすべきことは、この感染症について科学的な知見を多少なりとも得る努力をし、同時に政治に声を上げることだ。医療体制や検査体制の拡充に金を使えと。子供を守るために大人が安心して守れるように金を出せと。まかりまちがっても、マスクを外せだの5類云々というような非科学的な話ではない。

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