あなたの感想は

西村某的詭弁に対する抗い方を小さい子にどう伝えるか、そのノウハウを学ぶ本が欲しいと思っていたけど、その「本」までもがクソみたいな詭弁を「攻略法」とのたまい、開き直って子供まで食い物にするなら、もう「本」も頼れないしもう「本」じゃなくていいや……。

「本」だって所詮情報媒体の一形態に過ぎないけど、「本」という情報媒体としてまとめられることが相応の価値になる、というかその価値をパッケージにしているのが「本」だと思っていた。
WEBの情報は、価値があるものもあるけれど、ないものが圧倒的に多い。1990年代後半のあの頃は、インターネットには何でもある(ようになる)と思っていた。あの万能感、インターネットに対する期待はもうない。

それに、情報はインターネットの海をただよっていると比喩されるけれども、ある日突然見えなくなってしまうこともままある。企業が運営するWEBサイトですら、事業の行く末次第でその貴重なアーカイブを消してしまう。私も、数々の日記サイト/日記ブログをつくっては放置してきた。
他方、紙の「本」は、傷ついたりなくしたりしない限り、ずっとそこにある。
電子書籍は便利だけど、利用権に対価を払っているのであって所有にはなり得ないということもよくわかった。
そういう実感から、大事な「本」は、これから大きくなるチョカに残せればと思い、近年は「本」を紙で買うようにもしていた。

けど今は、その「本」が人を傷つけ社会を毀損する様子をいろんなところで目にするようになった。「本」に対する信頼を裏切られたと感じるような出来事が多くなった。
といってもその行為は、紙の束がしていることではなくて、紙に印刷される内容をつくった著者と編集者、それを世に出した出版社がしていることだ。人を傷つけ社会を毀損し、私の信頼を裏切っているのは、「本」というより「日本の『出版』」というほうが正確かもしれない。「この出版社から(自費出版ではなく)出版されていることが、その価値の一定の保証になり得る」と感じられる出版社が、かつては多数あったけれど、その信用はシロアリみたいに食いつぶされていく。

そのようにくくられることをよしとしない編集者も出版社も当然あるだろう。けど、一消費者としては「こんなんばっかり」と言いたくなる程度にはいやになってる。

差別言動を載せた早川書房も、一般の人が受け続けている被害を見て見ぬ振りをする左右社も最悪だ。でも、詭弁やズルを弄し義務を逃れ差別の温床を生み戦う人に冷笑を向けるような人物を児童書の先生ポジションに採用する小学館の最悪ぶりといったらない。本当に心底がっかりした。貧すれば鈍する。社会が落ちていく、その底は見えない。どこまでも。その状況に批判を向け希望の種を蒔くべき出版社がやることがこれ。こうして貧した大人に食い物にされた子供が成人する頃、社会はどうなっているのだろうか。

早川にしろ、左右社にしろ、小学館にしろ、その行為を批判する声は多い。その大半は(少なくとも私が見ているものは)、社会に生きる大人として誠実な、本来は当たり前の、ものだ。
その指摘の数々は、どんどん流れてゆくSNSでなされている。でも、人を傷つけ社会を毀損する内容は一度出版されれば紙で残ることになる。この不均衡はなんだろう。

そして、「本」には信頼を裏切られたと感じることが多いけど、「本屋」には希望を感じることが多い。そうした「本屋」さんこそが、社会に希望の種を蒔きたいと思って、そして差別や偏見の種を取り除きたいと思って、ふんばって営業を続けているのではないだろうか。でも、いざ売る「本」がこのありさまとは。

ただ1つだけ、希望の明かりをともせるなと思ったのは、「それってあなたの感想ですよね」に「そうです! あなたの感想も聞かせてください!」というアプローチがあるということをつきつけてもらったことだ。感想で何が悪い。「感想ですよね」で上に立って対話をぶったぎるやつには「ええそうです感想です」と対話を求めればいい。子供の場合、事はそう簡単ではないと思うので、そもそもそういう論破ごっこ自体がなくなってほしいと思うが。
私は別のルートで「感情より論理のほうが価値がある」という呪いをかけられていた時期があるのだけど、その名残が自分の中に残っていたようで(だからといって西村を肯定したことは一度もないが)、今日見たSNSでのそうした投稿は、私自身のそれを吹き飛ばしてくれたようにも思えた。感想も批判もどんどん言えばいい。

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