ボトルメールとしての日記

土曜日、いつもなら日中コロと過ごしたあとは休みとして過ごすところだけど、今日はどことなくそわそわして落ち着かず、何をしても(しなくても)気持ちがふわふわしてしまいそうだったので、仕事の続きをすることにした。いい感じで進んだ。

ひと段落してSNSを見ると、ある方の日記が「おもしろかった」と評されていた。私は人の日記を読むのがとても好きで、そのなかでもその文章の感じや日常の切り取り方を好んでいるひと(の日記)もたくさんある。だから、まめに日記を書き、ネップリやZINEとして公開している方の存在をありがたく思うけれど、私ができていないことをしている方々に対するうらやみでじたばたすることもしょっちゅうある。

SNSの投稿を見て私がまず思ったのは「いいなあ」。次は「その方の日記と私の日記の違いは何だろう」。
先日の日記にも書いたように、私は日記を「ひとに提供するために磨き上げた文章の作品」としては書いていない(少なくともここに書いている日記や、手元で非公開で書いている日記は)。文章の推敲は多少しているけど、主旨は生活の切り取り、素描だ。それがおもしろいか、ひとに見てもらうべきものかと問われたら、答えに悩む。少なくとも、おもしろく書こうという意志をはりめぐらすことはできていない(こういう話をするなら「おもしろさとは何だ」という話も必要になるけど)。

でもなんか、そういうことでもない気もしないでもない。ひとから好かれる書き手の書くものは好まれ、そうでない書き手の書くものは好まれない、みたいなところの違いなのかもしれない。……。この方向の掘り下げはあまり幸せにならない気がする。とりあえずとめとこう。

私は今、日記を何のために書いているのだろう。
それはひとのネップリジンを見たときに得た、書き手のあなたと読み手の私が広い宇宙の隣り合う(それは実際にはとても遠い距離の)星と星ように、あるいは公園のベンチで一瞬隣り合った他人のように、あなたと私とそれから数多の存在が個と個と個と個と……として生きていることの実感をまた得たいからだ。あの個と個のつながり(といっても、星座の説明のときに見る側が勝手に線と線でつなぐような)に加わりたいし、加わることで自分の存在がほかの誰かにその実感をもたらすこともあるかもしれないと思うからだ。そしてそれが、自分の生存のための抵抗活動になると思うからだ。ほかにもいくつか理由はあるけど、強い動機はそれだ。

こないだ久しぶりに映画『あのこは貴族』を見返した。終盤、大きな橋のこちら側と向こう側で居合わせ、そして手を振り合う華子と自転車の2人は、その後再び会うことはないかもしれないけど、あの一瞬の邂逅が少なくとも華子にとってはなにがしかの灯火になったのだと私は解釈している。ああいう瞬間を、私は日記で、ネットプリントで、ZINEで、もちたいんだよな。どこかの誰かに届くかもしれないボトルメールとしての日記、ネットプリント、ZINE。

最近、日記はどうにか書けている。次はネットプリントとZINEの再開だ。つくらないと何も始まらない。そんなことを考えながら、InstagramでOsaka Zine + DIY Festの盛況ぶりを拝見しながら寝る。大阪行きたかったなあ……。

【今日読んだもの】
Zineformation center(OZDF内で開催されるコーナー)

ZINEのイベントは全国にたくさんあれど、このZineformation centerのような場をつくったり、セーファースペースを志向する姿勢をきちんと表明して実際にアクションをとったり、そういうイベントはそうそうないと思う。だから私にとってこのOZDFは特別だし、いつかは参加したいけど、こういうイベントが特別なものではなくどこでも見られるというのが一番いいと思っている。特に営利イベントでこそ!!

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