時間の薄さ

「日記を書きためてもう1週間ぐらいかな」という感覚でいたのに、10日以上も過ぎていたとは。次の確定申告、あっという間にやってくるな、これは……。

個人事業主になってから、業務時間などを把握するために行動記録をつけている。この記録もたいがいためがちだけど、日記ほどではない。それでも、3日経つとかなり記憶がおぼろげになる。なん行動自体にはほとんど変化がないもんで。変化を起こせていない自分にがっかりながら、カレンダーやメールの送受信、手元のレシートなどで記憶を補完する。何事もためないことの重要性、わかっているつもりなのになぜオレはあんなムダな時間を……と、三井寿のように悔いてしまうのだった。

日記だって、その日観たドラマ、思ったこと、感じた怒り、その日のうちに書いたほうがぜったいに新鮮で、そのかたちを残しやすくなるはずなのだ。それをしたくて日記を書いているはずなのになんでためてしまうのかというと、実際かたちに残したものに「これしかできんのか、わしは」と落胆してしまうのがこわいからだ。かつてはのぼれた(気がする)あの高みに、今はもう手が届かないことを知るのがこわい。なんでもそう。そのこわさゆえにためこんでいることが、わたしには大量にある。それでも日記は、もはや日記とはいえないけど、そのこわさをだいぶ克服してきてはいる。楽しく感じられるように手を動かす。まずはそこから。

わたしとは正反対に、姪は変化を続け、成長の一途をたどっている。遊ぶ内容、話す言葉、しぐさ、表情、興味の対象……すべてが、「前回うちに来たときにいたあの子」ではもうなくなっている。「あの子」の延長線上にいるなとかろうじて感じられるのは、会う間隔が短いからだろう。あっという間に2時間経ち、3日経ち、1カ月建つわたしの時間の薄さとは比べようもない。

ひらがなをだいぶ読めるようになった。数字も12までは全然ノープロブレム。ひらがなや数字も、ところどころ反転しているけど十分読める。この字は、姪が自分の好きな芸能人の名字を書いたものだ。この字を見たときの感動ったらなかった。ヘレン・ケラーの「Water」を聞いたサリバン先生もかくやと思うほどだった。

その感動をわたしが何週間もしゃぶりつくしている間に、描く絵も変わる。本当にちょっと前まで「ハートが描けない〜」とぐずっていたのが、スケッチブックにささっと、あるテーマを設定して1枚の絵を描けるようになるって、こっちは想像が追いつかない。姪が「はいっ」とその絵を渡してくれたとき、わたしは窓を開けて世界に自慢したくなった(こうして書いているのは、ある意味それを実現しているといえる)。

その分、内面はどんどん複雑になっていく。中にあるだろう感情と口から出る言葉が一致しないことが増えてきたし、泣き方も変わってきた。どう接するのがいいか、迷う場面は多々ある。わたしがそうなのだから、毎日姪と過ごしている母(わたしの妹)はもっとそうだろう。じじ(わたしの父)は、わたしをはじめとする「子供」と接してきたやり方が姪には通用しないことに直面して、腰が引けているようだ。ばば(わたしの母)も、言っていいこととそうでないことの判別に戸惑うことが少なくない。その心情に対して、一定の同情はある。

でも、一番戸惑っているのは姪に決まっている。毎日何か「New」があり、それはうれしいことだけではない。その「New」に対して感情は右に左に揺れるだろう。その感情は何なのか、姪自身でわからないこともきっとたくさんあると思う。それを飲み込んで消化するのは並大抵のことではないだろう。それを思えば、大人たちは戸惑いなどと言っている場合ではない。小さい手をつないで、その後ろ姿を見送って、そんなふうに思った。

姪たちが帰ったあと、「シン・ゴジラ」を観た。シン・ゴジラが公開されたのは2016年。あのときはまだ、「この国はまだまだやれる」という台詞に夢を見られたなあと思った。あれからBlu-rayで、配信サービスで何度となく観ているけれど、前回観たときは白けた。今回は泣きそうになった。現政権なら、逃げ遅れたあの老夫婦の命はなかったのではなかろうか。蒲田くんは、ある時点でぶっ倒れてむずむずしたかと思うと第三形態に進化する。あの蒲田くんをみて、姪の成長を思った。

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