本を読んだ

昨日までやっていた仕事がひと段落して、あと1件、あの仕事もやっちまうかと朝の段階では思っていた。けど、祝日で会社勤めの人からは連絡が来ない日だということを認識して、気持ちがのんびりしてしまった。そうしているうちに昨日までの仕事の修正依頼も入って、「今日はもういいや」という気分になった。

なので、本を読もうと思った。
読みたい本はたくさんあって積ん読も買いたい本リストも山のようにあるのに、もう長いこと、本をちゃんと読めていない。それは、目の前の時間を「明確に何らかを生産すること」に割くことを優先してしまってきたからだ。電車通勤のように読書に適したシチュエーションもなく、本を読むには家のなかで「本を読もう」と意思決定するしかない。それを怠ってきた。その結果、自分の血がドロドロになり、筋肉が衰えていることは実感している。

で、本を読もうと思った。
幸い軽めに読めるおもしろい本があり、久しぶりに、ページをめくる手がすいすい進む体験をした。紙の本はこの感覚がすばらしい利点の一つだと思う。でもご飯を食べながら読むと本が汚れそうになるのは難点だ。昔は気にせずやってたはずだけど、ブランクがなんとなく潔癖にさせてしまう。

そうして本を読み、ご飯を食べ、遅めの昼寝をしていたら、まんまと体内時計がずれてしまって今日は実質終了となった。「カーネーション」の録画を見ながら、要整理フォルダに溜め込んでいた画像やらPDFを整理し、開きっぱなしにしていたChromeのタブを巡回して整理する。

このファイルの整理をしているとき、件の「マウスの動きがカクカクする」が相当数発動して非常にイライラした。
電池はすでにかえている。あとはマウスパッドがないからか。とりあえず紙を敷いてみるといくらか改善したが、それでもカクつく。
さらに検索して、USBのレシーバーとの距離という要因があること(自分が認識していたよりその許容範囲が狭い可能性があること)を知り、レシーバーを挿しているUSBハブをマウスに近づける。と、動きが格段にスムーズになった。そういうことなのか??

ROOTSY氏の「すごく静かなtwitter(みたいなやつ)」を拝読していたら、強く共感する箇所があった。
ある行動をしなかった数カ月を経て久しぶりにその行動を再開したら、それをする筋肉が落ちていた。「別に、(その行動)をできない人として生きていってもいいんだよな」と考えた、というような内容だった。
ブランクで筋肉が落ちたという経験も、その行為は筋肉だということも、「それができない人生を生きてもいい」というところも、ジャンルは違うものの私が抱えている痛みと近い物思いのように感じられた(私の側からの一方的な感覚だけど)。

私が今できていないあれやこれやのための筋肉はおそらくもうきれいに落ちているし、その筋肉をまた一からつけなおせるめども今は立っていない。この先もできなくても悪いことじゃない……というと違和感があるな、「できなくてもいい」の言い換えを「できなくても悪くない」とするのは、この場合違和感がある。この先もできなくても、生きていくことはできるし時間は流れる、そういう人生を生きるという選択肢もある。
そのことに私が気付いたのはわりと最近で、このまま生きても生きられるのか、とふと思ったのだった。

でもまだ今は、「この先もできない人生」を選ぶ(積極的にでも消極的にでも)ことは諦めであって喪失であって、空洞を抱えて生きるつらさがある。ので選べない。全部は無理かもしれないけど、どれかだけでも追いかけたい。それなら、その実効策を考えないとな。

もし今日この日記を書いていなかったら、あとから振り返った今日は「仕事しかしなかった、何もなかった日」という一言だっただろうな。今朝食べたご飯を夜にはもう思い出しづらくなっているように、考えていたこと、感じたことはどんどん遠ざかって見えなくなる。こうやって書いてみると、そうじゃなかったのだなと思う。ここに書けてない、もっともっと細かい感覚もある、その密度を思うと、毎日があっという間で今年ももう3月が終わろうとしているこのスピードが信じがたい。やっぱり日記を書くのはおもしろい。

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