“子泣きじじい”の重さ

このサイトを見ればわかるように、自分があまりにも日記を書けてなかったもので、いつもうっすら後ろめたさがあった。「やることをやってない」というタスクがあるときの、頭の片隅にいつもちらつく影がある感じ。妖怪・子泣きじじいがどんどん重くなるというのはこういう感じなのかな、と想像する感じ。あれがずっと、日記という分野においてもあった。日記をちゃんと書いている人がまぶしくて直視できなかった。

けど、最近少し書けるようになって、後ろめたさが多少薄くなった。そしたら途端に、私が背負っていた“子泣きじじい”が急激に軽くなった。現金すぎる。

少し書けるようになったのは、フリーペーパーをつくる練習で、書く/描くことが「すぐそこにあるもの」になってきたから。“子泣きじじい”が重かった頃の私にとっては、テキストエディタに向かって日記を書くこと、iPadを開いて絵の練習をすることは、重くさび付いた扉を開けるような、怖くて苦しいものだった。扉を開けてしまえば楽しいのだけど、扉を開けるのが怖くなっていた。

その扉を、フリーペーパーの練習で開けることができた。で、「扉を開けて一通り換気もしてみたら、中はめっちゃ古くなって汚れてもいるけど、思ってたより明るいし全然怖くないね」というような心象になった、という感じ。

最近読んだ、本屋lighthouseさんの「私はなぜ書くのか」や小沼理さんの「日記が続かない人へ(呪いにしないための覚え書き)」(こちらはnoteだけど……)もよかった。

なので俄然、「日記、カジュアルに書いたるぜ。そしてフリーペーパーなりZINEなりつくったるぜ」という気持ちになっている。
そうすると、あと必要なのは時間。どうやって継続するのかということだけ。

◆◆◆

今日は昼から美容院に行く予定だったので、午前中に日記を書いて、午後美容院、夜はベアづくり、というスケジュールにするといろいろ収まりがいいな……と考えていた。けど、午前中は猫の応対と仕事の見積もりで終わってしまった。

美容院は予定通り行けたけど、微妙にうっすら「うーん……」という満足のできなさが残った。カットやカラー自体にはまったく問題なく、仕上がりにはたいへん満足しているのだけど、会話がうまくかみあわなかった気がするのと、時間の都合でせわしなく終わったことで、気持ちをうまく締めくくれなかった。まあそういうときもある。

夜はベアづくりにちゃんと着手はできたけど、思いのほか手のかかる工程があることがわかって、「これ、(目標日)までに仕上げられるのかな……」と不安になっている。不安になっても進みは早くならない。とにかく1工程ずつ進めていくしかない。
道具を広げておいておくスペースがあればすきま時間にでも進めやすいのだけど、猫のことを考えるとそうもいかない。「しまって、また出す」この手間を、私自身が負担しなければならない。そもそもおしにおしてるのも自分のせいだし!

資材が足りなくなりそうなことに気づいて追加注文。追加出費……。「4月から価格改定します」というお知らせに「その前に買っておきたい欲求」がむくむくとわきそうになるも、引き出しの中のモヘアの束を思い出して今必要なものだけを買えた。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です