猫について

幸いにも今週末あたりからいくつか仕事が入りそうな予定がある。そうすると、それまでの数日をどう過ごすかという話になる。数日でできるぐらいの量の仕事があって依頼していただくことができればいいけれど、最悪仕事なしのまま11月を終える可能性もある。もはやそれを覚悟して、この数日は忙しくなったらできないことをしておこうと考えた。確定申告。掃除。読書、ZINEの制作、スマートフォンの写真整理。チョカのアルバム作成……。横須賀美術館の「躍動する韓国イラストレーションの世界」も見に行きたい。ついでに観音崎で貝チェックもしてきたい。

では今日は何をしよう、と考えながらメールの整理や調べ物をしていたら、猫が寄ってきた。机に乗って自己主張するところまではよくあることだけど、机にごろんと横になったのはとても珍しかった。うんうん、そうだよそうだよ、そうしていれば平和に共存できるじゃん〜……となでていたら、例によって不穏な鳴き方をしてガブリとやるタイムになってしまい、その時間はあっという間に終わった。

私が人生で初めて自分の意志で自分の家族として迎えた猫(そう)は机の上、キーボードの向こうでよく横になり、私が仕事をしているそばで寝ていた。モニターの向こうから顔をのぞかせることもあった。夜は私にひっついて寝た。けど、今の猫(こみ)は、そういうことはあまりしないまま大きくなった。夜も、冬以外はほとんどひとりで寝る。ひとにくっつくようにして過ごすのがそれほど好きではないのだろうと思っていた、でも、私が甘え方と甘えてもいいことをもっとちゃんと教えることができていたら、もっと違ったのかもしれない。ひざの上に乗ってもいいし、机の上で寝てもいい。ガブガブかまなくても甘えたい気持ちを伝える方法はあるよと、もっとちゃんと伝えてあげなければいけなかったのかもしれない。

こみに対して、そういう後悔はずっとある。そうと過ごした1カ月がうまくいきすぎて、でもあっという間に終わってしまって、いまだにあの1カ月を直視できないままに、うまくいっていた部分的な感情だけが甦って、こみとのうまくいかなさと比べてしまうことがある。こみが何を考えているのか理解できず、こみの気持ちに応えることができなくて、申し訳ない気持ちになる。涙が出そうになるときもある。それは自分のせいだと思っている。そうとだって、もしそうがあのまま元気に大きくなってくれていたら、今頃「何考えてるのかわかんねー!」となっていた可能性だって当然に十分あると思っている。

かむことを感情を伝える手段にしてしまっているこみだけど、私が生きている限りは思う存分かむことはできないわけで(私が痛いから)、このまま一生、その気持ちをもてあまして過ごすのだろうか。それとももっと老いてかむ力が弱くなるかかむ気力が衰えたときに、穏やかに感情を伝える手段を身につけ満足することができるようになるのだろうか。1匹ではなく2匹で迎えることができていたら、また違ったのだろうか。今から何ができるだろうか。

ガブとかんだあとすぐにかまうと、「かむといいことがある」という報酬になってしまうので、そうならないよう少し時間を空けてから、リビングで横になっていた猫のもとへ行き、遊んだ。今日はとても天気がよく、久しぶりに人間は私ひとりという時間もできたので、けっこうがっつり遊んだ。そしてひなたぼっこをした。天気はよく室内は日光でぽかぽかだったけど、外は強風で、途中で洗濯物の一部を取り込んだ。

午後は本を読むか確定申告するかと考えていたけど、緊急避妊薬試験販売インフォメーションのWebサイトの、困っているひとの助けになる結果につなげようという意思が微塵も感じられない立て付けに腹を立て、パレスチナの動向を調べ、プラカードのネットプリント情報をまとめ、明日出すごみをまとめ、猫のトイレを片付け、などしていたらあっという間に夕飯の時間になり、夜になり、日付変更線が近くなり、日付が変わってしまった。1日が早すぎる。生きているだけで、しなければならないことはけっこう多い。時間が足りない。

寝ている猫の顔

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